「中学受験社会/歴史/中巻」の版間の差分

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椎楽 (トーク | 投稿記録)
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[[ファイル:Adachi yasumori & takezaki suenaga.jpg|thumb|250px|『蒙古襲来絵詞』より鎌倉の安達泰盛邸で先駆けの功を訴える季長(右)。<br>竹崎季長も、恩賞の少なさに不満をもった御家人の一人で、幕府に自分の功績をうったえでるために、彼の元寇での活躍を記した絵巻物を手下のものにつくらせました。それが『蒙古襲来絵詞』だと言われています。]]
 
御家人の中には、社会の変化で生活が貧しくなり、借金をする者も出てきました。1297年に、幕府は御家人の借金を帳消しにし、金貸しから取られた土地をとりもどす{{ruby|'''徳政令'''|とくせいれい}}を出しました。このときのものを特に、{{ruby|'''永仁の徳政令'''|えいにん の とくせいれい}}といいます。これにより、御家人は一時的に助かりました。しかし、社会のたお金が返ってこななっみの変化に対応しうえに担保<ref>お金を貸すときに預けるもの。お金が返せなければ代わりに担保が取り上げられる。</ref>の土地まうばわれたため、金貸し御家人にお金を貸さくなましかっ。そのため、御家人たちの生活はかえって再び苦しくなっていきました。
 
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=== 鎌倉時代の文化 ===
武士の支配する社会になったので、平安のろの貴族とが、文化面にも影響を与えました。また、宋の交流を通じてちがった宋の文化が出の影響も受けきました。
 
文芸では、平氏の{{ruby|繁栄|はんえい}}から{{ruby|滅亡|めつぼう}}までを書いた<big>{{ruby|'''平家物語』</big>('''|へいけ ものがたり}}』のように、軍記物が人々の関心をあつまました。
 
[[ファイル:Biwa-Hoshi-71-Shokunin-Uta-Awase-Picture-Scroll.png|thumb|琵琶法師。]]
<big>{{ruby|'''琵琶法師</big>('''|びわほうし}}いうよばれた盲目の僧の人物が、琵琶による弾き語りで各地で平家物語などを語り歩いたといいます。当時は、文字の読める人が少なかったのです。
 
随筆では{{ruby|鴨長明|かものちょうめい}}による『{{ruby|'''方丈記』('''|ほうじょうき}}』()や、吉田{{ruby|兼好(よしだ|けんこう}}法師の『{{ruby|'''徒然草』('''|つれづれぐさ}}』などが出てきました。
 
貴族を中心とした和歌などでは、後鳥羽上皇文化も残っていた。『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)が命令により{{ruby|藤原定家|ふじわらのさだいえ}}らによって『'''新古今和歌集'''』が編集されました。後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)また、3代将軍命令源実朝により、定家が編集しって残され和歌集が新古今{{ruby|金槐|きんかい}}和歌集』もこの時代の作品ある
 
源平合戦の中で東大寺は焼けてしまいましたが、鎌倉時代のはじめごろに再建されました。この再建のときに、中国大陸の宋の建築様式である{{ruby|大仏様|だいぶつよう}}が取り入れられました。大仏様は<ref>{{ruby|天竺様|てんじくよう}}ともいいます。</ref>
鎌倉時代の和歌集は他にもあり、3代将軍の源実朝(みなもとの さねとも)によって残された『金槐和歌集』(きんかいわかしゅう)がある。
 
[[ファイル:Nio guardians by Unkei in Nara.jpg|thumb|200px|left|木造金剛力士像(国宝)]]
{{ruby|彫刻|ちょうこく}}では、<big>'''運慶'''と'''快慶'''らによって{{ruby|'''金剛力士像</big>('''|こんごうりきしぞう}}が、つくられました。金剛力士像がある場所は、奈良の東大寺の南大門にあります。この金剛力士像を作った彫刻家(ちょうこくか)は<big>運慶</big>(うんけい)と<big>快慶</big>(かいけい)です。
 
東大寺は、平安時代からあった寺ですが、平氏に焼き払われたので、鎌倉時代のはじめごろに再建されました。
この再建のときに、中国大陸の宋の建築様式である大仏様(だいぶつよう)が取り入れられました。大仏様は天竺様(てんじくよう)ともいいます。
 
[[ファイル:Minamoto no Yoritomo.jpg|200px|thumb|似絵(にせえ)。源頼朝とされる人物が描かれている。]]
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仏教では、中国から{{ruby|禅宗|ぜんしゅう}}が入ってきました。また、武士や民衆にも分かりやすいような教えが好まれるようにな広がり、新しい{{ruby|宗派|しゅうは}}が出てきました。その結果、民衆にも仏教が広まるようになります。鎌倉時代に始まった仏教の宗派には次のようなものがあります。
鎌倉時代の仏教の宗派には
 
*念仏宗
:浄土宗(じょうどしゅう)
:**{{ruby|浄土|じょうどしんしゅう}}
:時**{{ruby|浄土真|ょうどしんしゅう}}
:日蓮**{{ruby|時(にちれん|じしゅう}}
**:浄土宗・浄土真宗・時宗はどれも「南無阿弥陀仏」というお念仏を唱えることを重んじたことから三つをまとめて念仏宗ともいいます。
:禅宗(ぜんしゅう)
*{{ruby|日蓮宗|にちれんしゅう}}
が、出てきます。
*禅宗
**{{ruby|臨済宗|りんざいしゅう}}
**{{ruby|曹洞宗|そうとうしゅう}}
:座禅(ざぜん)などの修行(しゅぎょう)により心を鍛え(きたえ)、悟り(さとり)を開く宗教です。この修行の考え方が武士の風習にあっており、武士に禅宗が好まれます。{{ruby|栄西|えいさい}}および{{ruby|道元|どうげん}}が、宋に渡って学んできた教えをもとにした宗派です。
 
*浄土宗
 
:{{ruby|'''法然'''|ほうねん}}がひらいた。{{ruby|阿弥陀如来|あみだにょらい}}を信じ「{{ruby|南無阿弥陀仏|なむあみだぶつ}}」という念仏を唱えるようにこと(念仏)を勧めました。
*浄土宗(じょうどしゅう)
:{{ruby|'''法然'''|ほうねん}}がひらいた。阿弥陀如来(あみだにょらい)を信じ「{{ruby|南無阿弥陀仏|なむあみだぶつ}}」という念仏を唱えるように勧めた。
*{{ruby|浄土真宗|じょうどしんしゅう}}({{ruby|一向宗|いっこうしゅう}} ともいう)
:{{ruby|'''親鸞'''|しんらん}}が、ひらい開きまし。親鸞は、法然の弟子である
:親鸞の考えによると、功徳<ref>くとく。神仏からよい報いを与えられるような、よい行い。世のため、人のためになるよい行い。</ref>を積むことができずに煩悩<ref>ぼんのう。心身にまといつき心をかきみだす、一切の妄念・欲望。</ref>にとらわれた悪人こそ阿弥陀如来の救いにふさわしいと説いきました({{ruby|'''悪人正機説'''|あくにん しょうきせつ}} )
*時宗(じしゅう)
:{{ruby|'''一遍'''|いっぺん}}が開きました。「踊り念仏」と言っていう彼は念仏を唱えながら踊るということをはじめまながらた。そして、諸国を歩いて、教えを広めました。
**浄土宗・浄土真宗・時宗はどれも「南無阿弥陀仏」というお念仏を唱えることを重んじたことから三つをまとめて念仏宗ともいいます。
 
*{{ruby|日蓮宗|にちれんしゅう}}({{ruby|法華宗|ほっけしゅう}}ともいう)
:{{ruby|'''日蓮'''|にちれん}}が開きました。{{ruby|法華経|ほけきょう}}というお経の教えを重んじ、「{{ruby|南無妙法蓮華経|なむ みょうほう れんげきょう}}<ref>「法華経に{{ruby|帰依|きえ}}します」という意味。</ref>」という「題目」を唱えることが救いへの道であると説きました。
:・*臨済宗
 
:栄西が開きました。特に武士や公家に広がり、鎌倉幕府からも保護を受けました。
*禅宗(ぜんしゅう)
*曹洞宗
 
:道元が開きました。主に庶民に広がりました。
:'''臨済宗'''(りんざいしゅう)と'''曹洞宗'''(そうとうしゅう)が、あります。
:座禅(ざぜん)などの修行(しゅぎょう)により心を鍛え(きたえ)、悟り(さとり)を開く宗教です。この修行の考え方が武士の風習にあっており、武士に禅宗が好まれます。
:栄西(えいさい)および道元(どうげん)という人物が、宋に渡って学んできた教えをもとにした宗派です。
 
:・臨済宗
::<big>栄西</big>(えいさい) が開きます。
 
・曹洞宗
::<big>道元</big>(どうげん) が開きます。
 
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