=== 建武の新政から南北朝の対立へ ===
1333年、後醍醐天皇は京都にもどり、天皇による新しい政治を始めました。この年に年号を{{ruby|建武に|けんむ}}へとかえたので、この後醍醐天皇による1333年からの新たな政治を<big>'''建武の新政</big>(けんむ の しんせ'''とい) というます。
しかし恩賞が不公平だったため、特に武士からの不満が大きくなっていきました。そうした中で、有力武士であった足利尊氏への期待が集まりました。1335年7月に、関東で起きた反乱を押さえるために足利尊氏が出陣すると、後醍醐天皇と尊氏との対立が表面化します。
しかし武士に対する恩賞が少なく、また新しい制度が貴族に大きな権力を与えるものであったので、武士からの不満が大きかった。
建武の新政への不満から反乱をしずめた後、1335年尊氏と後醍醐天皇とは完全に足利対立しました。尊氏が反乱は新田義貞・楠木正成などの天皇側の勢力を起こし破り、1336年には京都を占領したのでます。結局、たったの2年ほどで建武の新政は終わっりました。後醍醐天皇は奈良の{{ruby|吉野(|よしの) }}に逃げれますした。
いっぽう足利尊氏は、京都で別の天皇の光明天皇(こうみょう てんのう)を立てますした。こうして、天皇が2人いることとなり、朝廷も二つにわかれました。
尊氏に味方した京都の朝廷を{{ruby|'''北朝'''|ほくちょう}}といい、いっぽう後醍醐天皇にしたがった吉野の朝廷を{{ruby|'''南朝'''|なんちょう}}といいます。そして、この時代を'''南北朝時代'''といいます。南北朝の対立は60年ほど続き、各地の武士は、北朝か南朝のどちらかについて争いました。しかし、しだいに北朝の側が有利になっていきます。
こうして、天皇が2人、できてしまいました。後醍醐天皇と光明天皇との、2人の天皇です。また朝廷が京都と奈良に、別々の2個の朝廷が出来てしまいました。
そして1338年には、 その京都の北朝 の光明天皇から 足利尊氏が征夷大将軍に 足利尊氏が任命されます。 こうして1338年、足利尊氏 は京都を拠点に しよって 新しく開かれた幕府を 開きます。この1338年の幕府は、のちに{{ruby|'''室町幕府''' (|むろまちばくふ )}}と 言われいいます。 ▼
尊氏の味方の側である京都の朝廷を'''北朝'''(ほくちょう) といい、いっぽう後醍醐天皇の味方である奈良の吉野(よしの)の朝廷を'''南朝'''(なんちょう) と言います。ふたつの朝廷をあわせて南北朝(なんぼくちょう)といい、この時代を<big>南北朝時代</big>(なんぼくちょう じだい)といいます。
▲そして1338年には、その京都の北朝の光明天皇から征夷大将軍に足利尊氏が任命されます。こうして1338年、足利尊氏は京都を拠点にして新しく幕府を開きます。この1338年の幕府は、のちに'''室町幕府'''(むろまちばくふ)と言われます。
南北朝の対立は60年ほど続きます。
各地の武士は、北朝か南朝のどちらかについて争いました。しかし、しだいに北朝の側が有利になっていきます。
=== 室町幕府のしくみ ===
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