「中学受験社会/歴史/中巻」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
椎楽 (トーク | 投稿記録)
椎楽 (トーク | 投稿記録)
→‎{{Ruby|室町|むろまち}}時代: 草取り。ここまで。
238 行
=== 鎌倉幕府の滅亡 ===
[[ファイル:Emperor Godaigo.jpg|thumb|200px|後醍醐天皇]]
1324年、{{ruby|後醍醐天皇|ごだいごてんのう}}は幕府を倒す計画をたてますが、失敗しました。1331年にも幕府を倒そうと計画しますが、再び計画がもれて失敗します。後醍醐天皇は幕府に捕らえられ、隠岐に島流しにされました。
 
しかし、幕府に不満のあった各地の武士や御家人たちが、天皇に味方して各地で兵をあげはじめました。また、悪党<ref>当時の「悪党」という言葉は、「強いもの」という意味です。</ref>という、幕府や荘園領主に従わない武装勢力が力をのばしていましたが、その中には後醍醐天皇に味方する者がいました。特に{{ruby|楠木正成|くすのきまさしげ}}が知られています。
260 行
 
=== 室町幕府のしくみ ===
京都の中央組織室町幕府では将軍の補佐とて{{ruby|管領|かんれい}}が置かれました。この管領は、侍所(さむらいどころ)有力な守護大名であった細川氏政所(まんどころ)山名氏問注所(もんちゅうじょ)などを管理する畠山氏の3氏から選ばれました
管領は有力な武士であった細川(ほそかわ)氏・山名(やまな)氏・畠山(はたけやま)氏の3氏から交代で選ばれた。
 
<div style="font-size:120100%;">
この管領の細川・山名・畠山の三氏の一族たちは、<big>三管領</big>(さんかんれい)とも、よばれます。
 
<div style="font-size:120%;">
<pre>
(中央) 
将軍━━━┳━━管領━━━┳━侍所(武士の統率・京都の警備・犯罪者の裁判)
     ┃       ┣━政所(財政)
     ┃       ┗━問注所(記録・裁判文書の管理)
     ┃
     ┃
     ┃
(地方) ┗━━━━━━━┳━守護━━地頭
280 ⟶ 275行目:
</div>
 
室町時代には、南北朝の争いをきっかけにして各地の武士の影響力が強くなりました。室町幕府でも各国に守護が置かれましたが、やがて守護は国内の地侍<ref>百姓から小規模の領主となった者。</ref>や国人<ref>地頭などがその土地に根付いて小規模の領主となった者。</ref>を家臣にしたり、国司の権限を吸収したりして一国全体の支配権を持つようになりました。こうして守護は'''守護大名'''へと成長していきました。また、有力な守護大名には複数の国を支配する者もいました。
室町時代や南北朝時代では、鎌倉時代よりも、各地の武士の影響力が強くなった。
地方の管理のため、鎌倉時代から守護(しゅご)という1国ごとにおかれて兵や警備などを管理する役職があったが、この守護の影響力が強くなる。
<big>守護</big>には、1国の年貢の半分を取り立てる権利が与えられた。地頭(じとう)は、守護の支配下に置かれた。
室町時代の守護の権限には,鎌倉時代よりも大きな権限が、幕府から与えられるようになった。
 
守護とは別にまた鎌倉関東には鎌倉府(かまくらふ)が置かれ,室町幕府による関東・東北地方への支配の拠点になりました。
その結果、守護は、その管理する国を、領地として支配し治めるようになった。このような一国を支配するようになった守護を<big>守護大名</big>(しゅごだいみょう)という。
有力な守護大名には複数の国を支配する守護大名もいた。
 
有力な守護大名には、細川氏(ほそかわ し)・山名(やまな)氏・大内(おおうち)氏・赤松(あかまつ)氏などがいる。
 
守護とは別に、鎌倉には鎌倉府(かまくらふ)が置かれ,室町幕府による関東への支配の拠点になった。
 
=== 足利義満 ===
[[ファイル:Yoshimitsu Ashikaga cropped.jpg|thumb|250px|足利義満(あしかが よしみつ)。]]
1392年3代将軍の<big>{{ruby|'''足利義満</big>('''|あしかが よしみつ}}のときに、幕府が政治を主導する形で、しての統一説得実現従わせした
 
義満は彼の住居を京都の <big>室町</big>(むろにおきち) につくらせ、した。その室町の住居が <big>花の御所</big>(はなのごしょ) いわ呼ばここが以降幕府の拠点になりました。この「室町」の名が、この「室町時代」や「室町幕府」の名前の由来である
 
[[ファイル:Kinkaku3402CBcropped.jpg|thumb|300px|金閣。]]
義満は <big>金閣</big>(きんかく) という建物(たてもの)を、京都の北山(きたやま)に建てさせます。
義満のころの室町時代の文化を 北山文化(きたやまぶんか) と言います。
金閣は、金箔(きんぱく)が貼られた豪華な建物です。
 
==== 明との貿易 ====
1368年、中国大陸では{{ruby|朱元璋|しゅげんしょう}}によって{{ruby|'''明'''|みん}}が建国され、モンゴル民族の{{ruby|元|げん}}は北方に退きました。
:(みん との ぼうえき)
 
15世紀ごろには、中国大陸沿岸では{{ruby|'''倭寇'''|わこう}}とよばれる{{ruby|海賊|かいぞく}}による被害が深刻になっていました。明は日本に対して倭寇の取り締まりと、正式な国交を日本に求めてきました。1401年、足利義満は、この明からの要求に応じて倭寇の取り締まりを約束し、日本から外交の使者を明へと派遣しました。
* 中国大陸の明(みん)との貿易へ
そして、明は義満を日本国王に任命しました。室町幕府は、明との正式な貿易を1404年に始めます。
日本では室町時代の頃、いっぽう中国大陸では、モンゴル民族の元(げん)にかわって、漢民族の<big>明</big>(みん)が帝国を築いていた。
 
この明との貿易では、正式な貿易船と海賊船との区別をつけるため、<big>{{ruby|'''勘合</big>('''|かんごう}}という合い札を用いられました。
中国大陸では、1368年に漢民族の朱元璋(しゅ げんしょう)という人物が反乱をひきいて、モンゴル人の帝国である元をたおし、あたらしく明(みん)という漢民族の帝国を築いていたのです。(朱元璋は、まだ、おぼえなくて良い。)
朱元璋は皇帝となりの洪武帝(こうぶてい)になります。
 
3代皇帝の永楽帝(えいらくてい)の1400年ごろ、中国大陸沿岸では海賊(かいぞく)による被害があり、海賊の拠点は対馬(つしま)や壱岐(いき)などの九州や瀬戸内海であった。この対馬や壱岐を拠点にした室町時代の海賊を <big>倭寇</big>(わこう) という。なお、当時の倭寇は日本人および朝鮮人から、なる。
 
なお、元寇により、中国大陸との正式な貿易は途絶えていたが、九州を中心に武士や商人らは元寇のあとも勝手に貿易をしていた。
 
明は日本に対して外交として、倭寇の取り締まりと、正式な国交を日本に求めてきた。この明からの要求におうじ、倭寇の取り締まりをするとおもに、日本から外交の使者を1401年に明へと送ります。送られた使者は、僧の祖阿(そあ)と、博多商人の肥富(こいづみ)であり、彼らが明(みん)へと外交のために行って、日本と明との外交が進みます。
 
日本は、明との正式な貿易を1404年に始めます。
 
この明との貿易では、正式な貿易船と海賊船との区別をつけるため、<big>勘合</big>(かんごう)という合い札を用いられた。
 
<gallery widths="200px" heights="200px">
327 ⟶ 298行目:
</gallery>
 
(たて)に一行、大きく数文字の文字が書かれた札を、文字の真ん中で2枚の札に分け、日本と明とが、その分けたうちの半分の札だけをもちます。正しい貿易相手どうしだと勘合の札を2枚あわせれば、もとの文字のもどるので、相手が正式な貿易船か海賊船かが確かめられる、という仕組みです。
 
このように勘合をもちいたので、室町時代の日本と明との貿易のことを <big>勘合貿易</big>(かんごうぼうえき) と言います。
 
この貿易によって、幕府は大きな収入源(しゅうにゅうげん)になりました。
 
当時このように勘合をもちいたので室町幕府とは、自分たち明に貢物との貿易のことおくる{{ruby|'''勘合貿易'''|かんごうぼうえき}} ます<ref>当時、明は朝貢(ちょうこう)をするのみ、明はだけ貿易をする方針をとっていまし。そためこの日本と明との貿易もそうです。日本が明へ朝貢し、おかえしに明が日本に物を与えてあげるという形式をとりました。</ref>。この貿易ですによって、幕府は大きな収入を得ました
このため、足利義満は、明から、「日本国王」(にほんこくおう)と認められます。中国語では「王」は(中国の)「皇帝」よりも地位がひくいです。
 
==== 発展的事項 中国以外との貿易 ====
:* 朝鮮半島との貿易
:日本は同じころ、朝鮮とも貿易をはじめました。勘合とよく似た仕組みの 通信府(つうしんふ) を用いられ、通信符により正式な貿易船を確認しました。朝鮮半島に近い場所である対馬(つしま)を治める宗(そう)氏を仲介として日朝貿易が行われました。朝鮮には 倭館(わかん) という館がつくられ、外交のために日本から朝鮮に送られてきた使者をもてなし、また外交交渉するための建物がつくられた。
 
:* 琉球王国(りゅうきゅうおうこく)との貿易
:また、当時、沖縄には 琉球王国(りゅうきゅうおうこく) があり、琉球王国が周辺の国々との貿易をおこなっていたので、日本も琉球との貿易を1415年ごろに開始した。
:琉球の貿易相手は多くて、現在でいうフィリピンなどの東南アジアにある国々とも貿易をしていた。
438 ⟶ 404行目:
 
裕福な貴族や商人などは京都から逃げ、戦火の無い地方に、貴族などは移り住むようになりました。そして、京都の文化が、地方に移り住んだものたちによって、地方へと伝わっていきました。
=== 東山室町文化 ===
==== 北山文化 ====
[[ファイル:Kinkaku3402CBcropped.jpg|thumb|300px|金閣。]]
義満は <big>金閣</big>(きんかく) という建物(たてもの)を、京都の北山(きたやま)に建てさせます。
義満のころの室町時代の文化を 北山文化(きたやまぶんか) と言います。
金閣は、金箔(きんぱく)が貼られた豪華な建物です。
==== 東山文化 ====
 
[[ファイル:Ginkaku-ji after being restored in 2008.jpg|thumb|200px|銀閣(東正面)]]