「中学受験社会/歴史/中巻」の版間の差分

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椎楽 (トーク | 投稿記録)
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=== 産業の発展と社会の変化 ===
==== 産業の発展 ====
[[ファイル:Tukinami huuzoku taue.jpg|thumb|400px|left|室町時代の田植えの様子。 『{{ruby|月次風俗図屏風』(|つきなみ ふうぞく ずびょうぶ}}』より。]]
二毛作が各地鎌倉時代広まった。西日本だけなく始まった二毛作は東日本にも二毛作が伝わっていきます。
:(さんぎょう)
二毛作が各地に広まった。西日本だけでなく東日本にも二毛作が伝わっていきます。
 
手工業では、業種ごとに同業者どうしの <big>'''</big>(ざ) '''という'''組合(くみあい)'''がつくられて、座は製造や販売を独占する権利有力な寺社などから与えられました。
 
また、運送業も発達します。この時代の陸上での運送業者は、馬を使って運送をすることがおおかったので、 <big>{{ruby|'''馬借</big>('''|ばしゃく) と言います。牛車ではこぶ場合は 車借(しゃしゃく) }}と言います。
室町時代は、鎌倉時代よりも、ますます商業が発達した。たとえば定期市は、鎌倉時代は月3回の 三斎市(さんさいいち) だったが、室町時代には月6回の 六斎市(ろくさいいち) になった。
 
産業や輸送が発達したため、室町時代には定期市が月6回開かれるようになりました。
室町時代の産業では、運送業(うんそうぎょう)が発達します。商業や農業・工業が発達したので、商品をはこぶ必要がふえたからです。
 
商業には{{ruby|貨幣|かへい}}が必要です。中国大陸の貨幣が使われました。明の銅銭である明銭(みんせん)を日本に輸入して、つかっていました。この明銭とあわせてまた、鎌倉時代に宋から輸入してつかっていた銅銭の{{rub宋銭|そうせん}}、つか使われていました。
この時代の陸上での運送業者は、馬を使って運送をすることがおおかったので、 <big>馬借</big>(ばしゃく) と言います。牛車ではこぶ場合は 車借(しゃしゃく) と言います。
[[Image:Eiraku-Tsuho.jpg|thumb|永楽通宝。代表的な明銭。|200px]]
 
他にも、倉庫などの保管業などを行っていたり輸送の管理をしたりする <big>{{ruby|'''(</big>()'''|とい(まる)}}出来ます。これが問屋(とんや)の起源です
商業には貨幣(かへい)が必要です。中国大陸の貨幣が使われました。明の銅銭である明銭(みんせん)を日本に輸入して、つかっていました。この明銭とあわせて、鎌倉時代に宋から輸入してつかっていた銅銭の宋銭(そうせん)も、つかわれました。
[[Image:Eiraku-Tsuho.jpg|thumb|永楽通宝|200px]]
明銭では永楽通宝(えいらくつうほう)が有名である。
 
高利貸し(こうり商業し)発展する中金貸しをおこなう金融業者(きんゆうぎょうも発展ゃ)が出てきした{{ruby|'''土倉'''|どそう) や 酒屋(さかや) です。土層(どそう)と}}今でいう質屋(しちや)のことで、客から品物をあずかるかわりに、客にお金を貸しました'''酒屋'''は、文字どおりにお酒もつくっていましたが、金貸しも行っていました。
他にも、倉庫などの保管業などを行っていたり輸送の管理をしたりする <big>問丸</big>(といまる) が出来ます。これが問屋(とんや)の起源です。
 
いろんな産業が出てきて、名前をおぼえるのが大変ですが、名前だけでなく現代の産業とも関連づけて学んでください。
高利貸し(こうりがし)で金貸しをおこなう金融業者(きんゆうぎょうしゃ)が出てきます。土倉(どそう) や 酒屋(さかや) です。土層(どそう)とは今でいう質屋(しちや)のことで、客から品物をあずかるかわりに、客にお金を貸します。酒屋は、文字どおりにお酒もつくっていましたが、金貸しも行っていました。
 
いろんな産業が出てきて、名前をおぼえるのが大変ですが、名前だけでなく現代の産業とも関連づけて、学んでください。
 
==== 農村の自治 ====
産業の発達にともなって、室町時代には農村の自治が、前の時代よりも強くなります。この自治が強くなった理由のひとつは産業の発達とも関連しています。
 
色々な村で、用水路や共用地の管理など村の運営(うんえい)のしかたについて、寺社などに集まって自主的に相談しあって決めるという <big>寄合</big>(よりあい) という集まりが開かれるようになります。
 
このような主体的な村を<big>惣</big>(そう)または <big>惣村</big>(そうそん) という。
 
このような惣は、産業が発達していた近畿地方から始まり、しだいに地方へも広がっていった。
 
色々な村で用水路や共用地の管理など村の運営(うんえい)のしかたについて、寺社などに集まって自主的に相談しあって決めるという <big>{{ruby|寄合</big>(|よりあい}}という集まりが開かれるようになります。
==== 一揆(いっき) ====
室町時代には、農民は、厳しい領主に対しては、集団で対立するようになる。
年貢が重い場合は、集団で領主に押しかけて(おしかけて)訴えでる(うったえでる)という強訴(ごうそ)をしたり、訴え(うったえ)がききいれられない場合は、全員が村から逃亡して村に人がいなくなってしまう逃散(ちょうさん)などで、対抗しました。
 
このような主体的な村を<big>{{ruby|'''</big>('''|そう}}または <big>{{ruby|惣村</big>(|そうそん}}といいます
* 土一揆(どいっき)
農民や馬借などは、あまり裕福ではなく、これらの貧しい職業の民は、当時は 土民(どみん) と言われていた。
 
このようなのしくみ産業が発達していた近畿地方から始まり、しだいに他の地方へも広がっていきました。
この土民たちが集団で実力行使にでることを 土一揆(どいっき) という。
 
==== {{ruby|一揆|いっき}} ====
室町時代には、貨幣による経済がすすんできたので、生活苦の農民などは借金をする必要が生じました。そのため、借金のふくらむ農民などが多くなり、たびたび借金帳消しの徳政をもとめて高利貸しなどをおそって借金の証文(しょうもん)を焼きすてる土一揆が、よくおきた。
農村が自立した力を持つようになると、厳しい領主に対して、土民とよばれた百姓たちは惣全体で対立するようになりました。年貢が重い場合は、集団で領主に押しかけて(おしかけて)訴えでる(うったえでる)という{{ruby|強訴|ごうそ}}をしたり、訴え(うったえ)がききいれられない場合は、全員が村から逃亡して村に人がいなくなってしまう{{ruby|逃散|ちょうさん}}などで、対抗しました。
 
こうして惣の百姓が、場合によっては複数の惣や馬借、地侍などが協力して要求することを{{ruby|土一揆|ど(つち)いっき}}と言います。土一揆は領主だけでなく、幕府に対して、借金帳消しの徳政をもとめることもありました。
このような一揆のきっかけが、次にいう <big>正長の土一揆</big>(しょうちょう の どいっき) である。
 
土一揆だけではなく、{{ruby|国人|こくじん}}({{ruby|国衆|くにしゅう}})とよばれた小規模の領主たちによる国一揆、一向宗(浄土真宗)の信者たちによる一向一揆も起きるようになりました。
* <big>正長の土一揆</big>(しょうちょう の どいっき)
近江国(おうみのくに、滋賀県のこと)の貧しい馬借(ばしゃく)たち運送業者が、京都で高利貸しをしている酒屋や土倉をおそい、幕府に徳政を要求した一揆である。
当初、幕府は徳政の求めには応じなかったので、一揆の民衆は借金の証文(しょうもん)を焼き捨てたり質物をうばうなど、実力行使(じつりょくこうし)に出た。
 
===== 有名な一揆 =====
[[ファイル:Nara_Yagyu_Hoso_Jizo_Tokusei-Hibun_20140902.jpg|thumb|岩に「正長元年ヨリ サキ者カンへ四カン カウニヲ井メアル ヘカラス」(「正長元年より先は、神戸四箇郷に負い目あるべからず」訳:正長元年より以前の、神戸(かんべ)四箇郷における負債は一切消滅した)ときざまれました。|200px]]
* '''正長の土一揆'''
:{{ruby|近江国|おうみのくに}}(滋賀県のこと)の貧しい馬借(ばしゃく)たち運送業者と百姓が、京都で高利貸しをしている酒屋や土倉をおそい、幕府に徳政を要求しました。当初、幕府は求めに応じなかったので、一揆であるの民衆は借金の証文を焼き捨てたり質物をうばうなど、実力行使に出ました
* 山城国一揆
* 加賀の一向一揆
 
=== 応仁の乱 ===