「中学受験社会/歴史/中巻」の版間の差分

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=== 応仁の乱 ===
:(おうにん の らん)
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8代目将軍の<big>'''足利{{ruby|義政</big>(あしかが |よしまさ}}'''のころ、有力な守護大名管領あいだで争いがあり、{{ruby|細川勝元|ほそかわかつもと}}有力守護大名の{{ruby|山名持豊|やまなもちとよ}}({{ruby|宗全|そうぜん}})とで幕府の実権いが起きます。そし、有力な守護大名の{{ruby|畠山|はたけやま}}氏の一族でも、争が起きまし。これに将軍家の跡継ぎ問題もからんできました<ref>次の将軍候補に、足利義政の弟の足利{{ruby|義視|よしみ}}と細川氏が手を結び、義政の妻の{{ruby|日野富子|ひのとみこ}}が子の足利{{ruby|義尚|よしひさ}}を跡継ぎに推し、山名宗全も富子を支持しました。</ref>
これがもとで、1467年に戦争がおき、全国の守護大名たちは、細川方(ほそかわがた)の東軍(とうぐん)か、または山名方(やまながた)の西軍(せいぐん)との、東西に分かれて争うことになった。
これが <big>応仁の乱</big>(おうにん の らん) である。乱は京都を中心にしていて、11年ほど乱が続く。
 
こうして、1467年に、全国の守護大名たちは、細川方の東軍か、または山名方の西軍との、東西に分かれて争いました。これが '''{{ruby|応仁|おうにん}}の乱'''です。この乱は京都を中心に、11年ほど続きました。
このように細川や山名などの守護大名が権力を持つようになった、そもそものきっかけは、義政が、あまり政治の実務には関心を持たなかった、という事情(じじょう)がある。
 
なお、戦争の起きたほかの要因としては、将軍の跡継ぎ(あとつぎ)をめぐる問題がある。次の将軍の候補(こうほ)に、足利義政の弟の足利義視(あしかが よしみ)と、それに対立して義政の妻の日野富子(ひの とみこ)が子の足利義尚(あしかがよしひさ)を跡継ぎ(あとつぎ)に推した(おした)ことで、跡継ぎ争いが加わった。
 
義視(よしみ)は細川氏をたより、義尚(よしひさ)は山名をたよった。
 
さらに、これにくわえて、有力な守護大名である畠山(はたけやま)氏の一族のあいだでも、争いが起こる。
 
このような、細川・山名の争いを中心に、他の権力闘争(けんりょくとうそう)が応仁の乱に加わっていた。
 
==== 応仁の乱の結果 ====
[[ファイル:Shinnyodō engi, vol.3 (part).jpg|thumb|left|400px|応仁(おうにん)の乱。 <big>足軽</big>(あしがる)と呼ばれる身軽な兵が活躍した。『真如堂縁起絵巻』(しんにょどう えんぎ えまき)。『真如堂縁起絵巻』は重要文化財。]]
京都は戦火で焼け野原になりましたじっさこのときの京都につに、そのうな戦火の焼け野原の光景を歌った和んだ歌が残っています
 
:なれや知る 都は野辺の夕雲雀 あがるを見ても 落つる涙は
(なれやしる みやこはのべの ゆうひばり あがるをみても おつるなみだは)
 
: なれや知る 都は{{ruby|野辺|べ}}の{{ruby|夕雲雀|ゆうひばり}} あがるを見ても 落つる涙は
(※ 和歌の文は、おぼえなくてもいいですが、応仁の乱の情景を歌った大切な歌なので、知っておいて下さい。)
 
こうして、室町幕府の勢いは衰えていきおい)ました。裕福な貴族や商人など京都から逃げ衰え戦火の無い地方に移り住むようになりました。そし(お、京都の文化が、移り住んだものたちによって、地方へろえ伝わっきました。
 
裕福な貴族や商人などは京都から逃げ、戦火の無い地方に、貴族などは移り住むようになりました。そして、京都の文化が、地方に移り住んだものたちによって、地方へと伝わっていきました。
=== 室町文化 ===
==== 北山文化 ====