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中国では、古くから文明が発達した。中国文明と呼ばれるものは、大きく分けて[[w:黄河文明|黄河文明]]と[[w:長江文明|長江文明]]の2つがある。黄河文明は、[[w:畑作|畑作]]が中心、長江文明は[[w:稲作|稲作]]が中心であった。黄河文明が、歴史時代の[[w:殷|殷]]や[[w:周|周]]につながっていき、中国の歴史の中軸となった。長江文明は次第に、黄河文明に同化吸収されていった([[黄河文明・長江文明]])。
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中国最古の王朝としては、伝説上では[[w:三皇五帝|三皇五帝]]や[[w:夏 (三代)|夏]]が知られている。しかし、実在が確認できるのは殷だけである。殷では、王が占いによって政治を行っていた([[w:神権政治|神権政治]])。
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[[w:春秋戦国時代|春秋戦国時代]]は、諸侯が争う戦乱の時代であった。しかし、各諸侯国は[[w:富国強兵|富国強兵]]に努め、商工業が発達し、[[w:貨幣|貨幣]]も使用されるようになった。また、この時代に[[w:鉄器|鉄器]]が普及したこともあいまって、農業生産も増大した。また、このような戦乱の世をどのように過ごすべきかという思想がさまざまな人たちによって作られた。このような思想を説いた人たちを[[w:諸子百家|諸子百家]]という。諸子百家の中でも、[[w:道家|道家]]や[[w:孔子|孔子]]・[[w:孟子|孟子]]に代表される[[w:儒家|儒家]]は、後の[[w:中華思想|中国思想]]の中心となった。
===秦
現在の[[w:陝西省|陝西省]]あたりにあった[[w:秦|秦]]は、戦国時代に着々と勢力を伸ばした。勢力を伸ばした背景には、厳格な法律で人々を統治しようとする[[w:法家|法家]]の思想を採用して、富国強兵に努めたことにあった。[[w:始皇帝|秦王政]]は、他の6つの列強を次々と滅ぼし、[[w:紀元前221年|紀元前221年]]には史上はじめての中国統一を成し遂げた。秦王政は、自らの偉業をたたえ、王を超える称号として[[w:皇帝|皇帝]]を用い、自ら'''始皇帝'''と名乗った。
始皇帝は、法家の[[w:李斯|李斯]]を登用し、[[w:中央集権|中央集権]]化を推し進めた。このとき、中央から派遣した役人が全国の各地方を支配する[[w:郡県制|郡県制]]が施行された。また、文字・貨幣・[[w:度量衡|度量衡]]の統一も行われた。さらに、当時[[w:モンゴル高原|モンゴル高原]]に勢力をもっていた[[w:遊牧民族|遊牧民族]]の[[w:匈奴|匈奴]]を防ぐために[[w:万里の長城|万里の長城]]を建設させた。さらに、軍隊を派遣して、匈奴の南下を抑えた。また、嶺南地方(現在の広東省)にも軍を派遣し、この地にいた百越諸族を制圧した。しかし、このような中央集権化や土木事業・軍事作戦は人々に多大な負担を与えた。そのため、[[w:紀元前210年|紀元前210年]]に始皇帝が死ぬと、翌年には[[w:陳勝・呉広の乱|陳勝・呉広の乱]]という農民反乱がおきた。これに刺激され各地で反乱がおき、ついに秦は[[w:紀元前206年|紀元前206年]]に滅びた。
===漢===
秦が滅びたあと、[[w:劉邦|劉邦]]と[[w:項羽|項羽]]が覇権をめぐって争った([[w:楚漢戦争|楚漢戦争]])が、[[w:紀元前202年|紀元前202年]]には、劉邦が項羽を破り、[[w:前漢|漢]]の皇帝となった。劉邦は、始皇帝が急速な中央集権化を推し進めて失敗したことから、一部の地域には親戚や臣下を王として治めさせ、ほかの地域を中央が直接管理できるようにした。これを[[w:郡国制|郡国制]]という。しかし、[[w:紀元前154年|紀元前154年]]には、各地の王が中央に対して[[w:呉楚七国の乱|呉楚七国の乱]]と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は鎮圧され、結果として、中央集権化が進んだ。[[w:紀元前141年|紀元前141年]]に即位した[[w:武帝 (漢)|武帝|]]は、国内の安定もあり、対外発展を推し進めた。武帝は匈奴を撃退し、[[w:シルクロード|シルクロード]]を通じた西方との貿易を直接行えるようにした。また、[[w:朝鮮半島|朝鮮半島]]北部、[[w:ベトナム|ベトナム]]北中部にも侵攻した。これらの地域はその後も強く中国文化の影響を受けることとなった。また、武帝は[[w:董仲舒|董仲舒]]の意見を聞いて、[[w:儒教|儒教]]を統治の基本とした。これ以降、中国の王朝は基本的に儒教を統治の基本としていく。
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[[w:魏晋南北朝表|魏晋南北朝表]]も参照。
===隋
中国を統一した[[w:隋|隋]]の[[w:文帝 (隋)|文帝]]は、[[w:均田制|均田制]]・[[w:租庸調制|租庸調制]]・[[w:府兵制|府兵制]]などを進め、中央集権化を目指した。また同時に[[w:九品中正法|九品中正法]]を廃止し、試験によって実力を測る[[w:科挙|科挙]]を採用した。しかし、文帝の後を継いだ煬帝は、江南・華北を結ぶ大運河を建設したり、度重なる遠征を行ったために、民衆の負担が増大した。このため農民反乱が起き、[[w:618年|618年]]に隋は滅亡した。
===唐===
隋に代わって、中国を支配した
[[w:712年|712年]]に即位した[[w:玄宗|玄宗]]は国内の安定を目指したが、すでに律令制は制度疲労を起こしていた。また、周辺諸民族の統治に失敗したため、辺境に強大な軍事力が置かれた。これを[[w:節度使|節度使]]という。節度使は、後に軍権以外にも、民政権・財政権をももつようになり、力を強めていく。[[w:763年|763年]]には、節度使の[[w:安禄山|安禄山]]たちが[[w:安史の乱|安史の乱]]と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は何とか鎮圧されたが、各地で土地の私有([[w:荘園|荘園]])が進み、土地の国有を前提とする均田制が行えなくなっていった。結局、政府は土地の私有を認めざるを得なくなった。結果として、律令制度は崩壊した。[[w:875年|875年]]から[[w:884年|884年]]には[[w:黄巣の乱|黄巣の乱]]と呼ばれる農民反乱がおき、唐王朝の権威は失墜した。このような中、各地の節度使はますます権力を強めた。[[w:907年|907年]]には、節度使の1人である[[w:朱全忠|朱全忠]]が唐を滅ぼした。
===五代十国
唐の滅亡後、各地で節度使が争った。この時代を[[w:五代十国時代|五代十国時代]]という。この戦乱を静めたのが、[[w:960年|960年]]に皇帝となって[[w:北宋|宋]]を建国した[[w:趙匡胤|趙匡胤]]である。ただし、完全に中国を宋が統一したのは趙匡胤の死後の[[w:976年|976年]]である。
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元は、宮廷費用などを浪費しており、そのため塩の専売策や紙幣の濫発で収入を増やそうとした。しかし、これは経済を混乱させるだけであった。そして、庶民の生活は困窮した。こうした中、各地で反乱が発生した。中でも最大規模のものは[[w:1351年|1351年]]に勃発した[[w:紅巾の乱|紅巾の乱]]であった。紅巾党の中から頭角をあらわした[[w:朱元璋|朱元璋]]は、[[w:1368年|1368年]]に[[w:南京|南京]]で皇帝に即位して[[w:明|明]]を建国した。同年、朱元璋は元の都の[[w:大都|大都]]を陥落させ、元の政府はモンゴル高原へと撤退した。撤退後の元のことを[[w:北元|北元]]といい、明と北元はしばしば争った。明側は[[w:1388年|1388年]]に北元は滅んだと称しているが、実質的にはその後も両者の争いは続いた。
===明
[[w:
永楽帝の死後、[[w:明|明]]は[[w:海禁政策|海禁政策]]をとり、貿易を著しく制限することとなる。その後、モンゴルが再び勢力を強めはじめ、[[w:449年|449年]]には皇帝がモンゴルの捕虜になるという事件([[w:土木の変|土木の変]])まで起きた。同じ頃、中国南部沿岸には、[[w:倭寇|倭寇]]と呼ばれる海上の無法者たちが襲撃を重ねていた。これは、海禁政策で貿易が自由にできなくなっていたためである。倭寇とモンゴルを併称して北虜南倭というが、北虜南倭は明を強く苦しめた。
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また、皇帝による贅沢や多額の軍事費用の負担は民衆に重税となって圧し掛かってきた。これに対し、各地で反乱がおき、その中で頭角をあらわした[[w:李自成|李自成]]が[[w:1644年|1644年]]に明を滅ぼした。
===清===
[[w:17世紀|17世紀]]初頭には、現在の中国東北地方で[[w:ヌルハチ|ヌルハチ]]が女真族を統一した。その子の[[w:ホンタイジ|ホンタイジ]]は中国東北地方と[[w:内モンゴル|内モンゴル]]を征服し、[[w:1636年|1636年]]にはモンゴル人から元の[[w:玉璽|玉璽]]を譲られ、[[w:清|清]]を建国した。李自成が明を滅ぼすと清の軍隊は万里の長城を越えて、李自成の軍隊を打ち破り、中国全土を支配下に置いた。[[w:17世紀|17世紀]]後半から[[w:18世紀|18世紀]]にかけて、[[w:康熙帝|康熙帝]]・[[w:雍正帝|雍正帝]]・[[w:乾隆帝|乾隆帝]]という3人の皇帝の下で、清の支配領域は中国本土と中国東北地方・モンゴルのほかに、[[w:台湾|台湾]]・[[w:東トルキスタン|東トルキスタン]]・[[w:チベット|チベット]]にまで及んだ。
この清の支配領域が大幅に広がった時期は、『[[w:四庫全書|四庫全書]]』の編纂など文化事業も盛んになった。しかし、これは学者をこのような事業に動員して、異民族支配に反抗する暇をなくそうとした面もあった。
明
===
[[w:18世紀|18世紀]]が終わるまでには、清とヨーロッパとの貿易は[[w:イギリス|イギリス]]がほぼ独占していた。しかし、当時イギリスの物産で中国に売れるものはほとんどなく、逆に中国の安いお茶はイギリスの労働者階級を中心に大きな需要があったこともあり、イギリスは貿易赤字に苦しんだ。そこで、イギリスは[[w:麻薬|麻薬]]である[[w:アヘン|アヘン]]を中国に輸出し始めた。結果、イギリスは大幅な貿易黒字に転じた。しかし、中国にはアヘン中毒者が蔓延し、この事態を重く見た清朝政府は、[[w:1839年|1839年]]に[[w:林則徐|林則徐]]に命じてアヘン貿易を取り締まらせた。しかし、これに反発したイギリス政府は清に対して翌[[w:1840年|1840年]]宣戦布告した。[[w:アヘン戦争|アヘン戦争]]と呼ばれるこの戦争では、工業化をとげ、近代兵器を持っていたイギリス軍が勝利した。これ以降、イギリスをはじめとするヨーロッパの列強による中国の半植民地化が進んだ。
国内的には、[[w:太平天国の乱|太平天国の乱]]などの反乱もしばしば起きた。これに対し、[[w:同治帝|同治帝]](在位[[w:1861年|1861年]] - [[w:1875年|1875年]])の治世の下で、ヨーロッパの技術の取り入れ([[w:洋務運動|洋務運動]])が行われた。
[[w:1894年|1894年]]から翌[[w:1895年|1895年]]にかけて清王朝と[[w:大日本帝国|大日本帝国]]との間で行われた[[w:日清戦争|日清戦争]]にも清は敗退した。これは洋務運動の失敗を意味するものであった。この戦争の結果、大日本帝国と清王朝と清との間で結んだ[[w:下関条約|下関条約]]により、[[w:李氏朝鮮|李氏朝鮮]]の独立が認められ、中国の王朝が長年続けてきた[[w:冊封体制|冊封体制]]が崩壊した。
その後、清王朝
=== 中華民国 ===
民国時代。[[w:1912年|1912年]]に20世紀初の[[w:共和制|共和制]]国家である[[w:中華民国|中華民国]]は成立したものの、実際は各地の[[w:軍閥|軍閥]]が群雄割拠する状態であり、列強による中国の半植民地化も止まらなかった。[[w:清|清]]王朝
[[w:1921年|1921年]]には[[w:中国共産党|中国共産党]]が成立し、一時蒋介石率いる[[w:中国国民党|中国国民党]]とも協力していた。しかし、蒋介石は[[w:共産主義|共産主義]]を敵視していたため両者の協力関係は終わり、中国共産党は[[w:毛沢東|毛沢東]]の指揮のもと、農村を中心としてその支配領域を広げていった。これに対し、蒋介石は断固とした攻撃を加え[[w:瑞金|瑞金]]に包囲し、[[w:延安|延安]]に追った。
[[w:ソビエト連邦|ソビエト連邦]]が樹立した[[w:モンゴル人民共和国|モンゴル人民共和国]]に対抗するため、大日本帝国は1931年に[[w:張景恵|張景恵]]ら満州軍閥と共同して、蒋介石の満州進出に了解を与えた[[w:張学良|張学良]]を追い、[[w:満州国|満州国]]を独立させた。[[w:1937年|1937年]]には、日本軍が中国本土に侵入し、中華民国と全面戦争に入った([[w:日中戦争|日中戦争]])。これに対し、蒋介石は当初日本との戦いよりも中国共産党との戦いを優先していたが、[[w:西安事件|西安事件]]により、二つの党が協力して大日本帝国と戦うことになった。
しかし日中戦争は当初日本軍優位に進み、日本軍は多くの都市を占領したが、各拠点支配はできても広大な中国において面での支配はできず、これを利用した国民党軍・共産党軍ともに各地でゲリラ戦を行い日本軍を苦しめ、戦線を膠着させた。日本軍は[[w:汪兆銘|汪兆銘]]ら国民等左派を懐柔、[[w:南京国民政府|南京国民政府]]を樹立させたが、国内外ともに支持は得られなかった。加えて[[w:1941年|1941年]]12月、大日本帝国は中華民国に加えてアメリカやイギリス
結局、戦争は[[w:1945年|1945年]]
しかしまもなく国民党と共産党との対立が激化して、[[w:国共内戦|国共内戦]]が勃発し、結果として中国共産党が勝利した。[[w:1949年|1949年]][[w:10月1日|10月1日]]に毛沢東が[[w:中華人民共和国|中華人民共和国]]の成立を宣言した。内戦に敗れた中国国民党は[[w:台湾|台湾]]に撤退し、引き続き現在にいたるまで中華民国と名乗っているが、国家承認している国は30ヶ国程度である。
===中華人民共和国===
[[w:1953年|1953年]]より[[w:社会主義|社会主義]]化が進み、人民政治協商会議に代わって[[w:全国人民代表大会|全国人民代表大会]]が成立、農業生産合作社が組織された。[[w:1958年|1958年]]、
この文化大革命は政治だけでなく一般にも多大な影響を与え、青少年によって結成された[[w:紅衛兵|紅衛兵]]が反革命派とされた人間をつるし上げたりしていた。後期になると国内の内乱状態を引き起こし、最終的に[[w:1976年|1976年]]の毛沢東死去で終結した。各地で大量の殺戮が行われ、その犠牲者の合計数は2000万人とも言われている。その後は一旦[[w:華国鋒|華国鋒]]が後を継いだが失脚し、[[w:トウ小平|鄧小平]]が政権を握った。鄧小平は、政治体制は[[w:共産党|共産党]][[w:一党独裁|一党独裁]]を堅持しつつ、[[w:資本主義|資本主義]]経済導入などの開放政策を取り、[[w:近代化|近代化]]を進めた。
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