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==使用道具==
旧石器時代には、石を砕いて作る打製石器を使用した。打製石斧、狩猟用に、ナイフ型石器・尖頭器を棒先端につけた石槍があった。旧石器時代終わりには中国東北部・シベリアから流入した細石器があった。新石器時代(縄文時代)には、黒曜石・ひすいによる磨製石器を使用し、また、弓矢、煮るための縄文土器、農耕用の打製石鍬、木の実をつぶす石皿・すり鉢、漁業用の骨角器(釣り針等)、網に用いる石錘があった。弥生時代BC4~AD3Cには、青銅器(銅鐸、銅剣、銅矛等)、石斧、穂摘み用の石包丁、弥生土器(甕、壷、鉢、高杯等)、鉄製農具、石製・金属製武器があった。古墳時代には、銅鏡、碧玉製腕輪、鉄製農武具等の呪術的副葬品、埴輪が使用された。また朝鮮半島から、鉄器、須恵器、織物、金属工芸などが入った。飛鳥時代からは、貨幣や交易品としての糸・布を使用していった。
==住居==
 旧石器時代は、テント式の小屋で、一時的な洞窟利用もされた。縄文時代は、定住的生活が始まり、地面に窪んだ穴を掘り、屋根をかけ、炉を持ち炊事を行い、一世帯で住む竪穴住居を営み、集落を形成した。弥生時代は、竪穴住居を受け継ぐ。集落は大規模化し、環濠集落が生まれる。古墳時代は、民衆の集落は環濠はなく、竪穴住居と平地住居、高床倉庫からなった。豪族は、民衆集落から離れた所に、環濠や柵をめぐらす居館をもち、支配者被支配者で住居差がつけられた。5Cには竪穴住居はつくりつけのかまどをもった。
 
 [[日本史 飛鳥時代|飛鳥時代]]、6C末からは、奈良の飛鳥に大王が王宮をたて、王族・中央豪族は王宮と別に邸宅をかまえた。飛鳥寺、法隆寺などの寺が建立されたが、寺は僧侶の住居である。[[日本史 奈良時代、8C|奈良時代]]には、民衆住居は、竪穴住居にかわり、平地式掘立柱住居が、西日本から普及していった。
 
 [[日本史 平安時代|平安時代]]は、平城京と同様、天皇・皇族は京都平安京の宮城の内裏など、貴族は白木・檜皮葺(ひわだぶき)で、畳の寝殿造に住んだ。摂関家は京中に大邸宅、院政期の法皇は京都郊外に離宮、地方では武士が館(たち)をきづいた。
 
 [[日本史 鎌倉時代|鎌倉時代]]、武士は河川近くに堀・溝・塀をともない、寝殿造を簡素化したとされる館を建てた。
 
 鎌倉[[日本史 室町時代、武士は河川近くに堀・溝・塀をともない、寝殿造を簡素化したとされる館を建てた。室町|足利時代]]は、足利義政の銀閣にみられるような書院造が生まれ、庭園をともない、座敷の装飾性が高まり、掛軸・襖絵・生花などがおかれた。戦国時代は、安土城、大阪城など城が築かれ、中に書院造の居館があった。
 飛鳥時代、6C末からは、奈良の飛鳥に大王が王宮をたて、王族・中央豪族は王宮と別に邸宅をかまえた。飛鳥寺、法隆寺などの寺が建立されたが、寺は僧侶の住居である。奈良時代、8Cには、民衆住居は、竪穴住居にかわり、平地式掘立柱住居が、西日本から普及していった。
 
 [[日本史 戦国時代|戦国時代]]は、安土城、大阪城など城が築かれ、中に書院造の居館があった。
 平安時代は、平城京と同様、天皇・皇族は京都平安京の宮城の内裏など、貴族は白木・檜皮葺(ひわだぶき)で、畳の寝殿造に住んだ。摂関家は京中に大邸宅、院政期の法皇は京都郊外に離宮、地方では武士が館(たち)をきづいた。
 
 [[日本史 江戸時代|徳川時代]]は、村落では本百姓は家屋敷だったが、一般の百姓の住居は萱(かや)や藁(わら)の粗末な家屋あった。城下町には武士・町人が居住区ごとに屋敷をもった。土地をかりて家屋を自分でたてる、家屋をかりて住むなどがあった。町人は町屋敷、中国の清国人は長崎の唐人屋敷、天皇家や公家は古代からかわらず京都に住んだ。街道沿いには宿があった。1700年代前半ころは、出稼ぎで農村から流入した人々や、日用稼ぎの人々が、町の裏長屋など、零細な棟割(むねわり)でせまい長屋に住んだ。
 鎌倉時代、武士は河川近くに堀・溝・塀をともない、寝殿造を簡素化したとされる館を建てた。室町時代は、足利義政の銀閣にみられるような書院造が生まれ、庭園をともない、座敷の装飾性が高まり、掛軸・襖絵・生花などがおかれた。戦国時代は、安土城、大阪城など城が築かれ、中に書院造の居館があった。
 
 [[日本史 戦前|帝国時代]]は、洋風住居が増えるものの、農民は税負担により土地を手放し、住居を失う場合があった。都市で鉄筋コンクリート建築、郊外の中流階層では和洋折衷の文化住宅が流行し、電灯、水道、ガス設備をともなう住宅が増えていくが、農村は同様の近代化が遅れた。第二次大戦中は、都市の建築物の強制取り壊しや、空襲による住居焼失があり、防空壕が住居としてあった。
 江戸時代は、村落では本百姓は家屋敷だったが、一般の百姓の住居は萱(かや)や藁(わら)の粗末な家屋だあった。城下町には武士・町人が居住区ごとに屋敷をもった。土地をかりて家屋を自分でたてる、家屋をかりて住むなどがあった。町人は町屋敷、中国の清国人は長崎の唐人屋敷、天皇家や公家は古代からかわらず京都に住んだ。街道沿いには宿があった。1700年代前半ころは、出稼ぎで農村から流入した人々や、日用稼ぎの人々が、町の裏長屋など、零細な棟割(むねわり)でせまい長屋に住んだ。
 
 明治以降は、洋風住居が増えるものの、農[[日本史 戦後|国は税負担主権時代]]より土地を手放し、住居を失う場合があった。大正以降は、都市で鉄筋コンクリート建築、郊外の中流階層では和洋折衷の文化住宅が流行し、電灯、水道、ガス設備をともう住宅が増えていくが、農村は同様の近代化が遅れた。第二次大戦中は、都市の建築物の強制取り壊しや、空襲によ住居焼失があり防空壕が住居としてあった。戦後は都市民衆の場合は防空壕や焼け跡にバラックをたてた。復興の中、アメリカ的生活様式が入る。高度経済成長期は、都市郊外に住宅建設、大都市周辺に高層アパートが広がり、以後テレビ・洗濯機・冷蔵庫・自動車・クーラーなどをともなうようになっていく。
 
==使用金属==