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==信仰==
 縄文時代には、自然物・自然現象に霊威が存在すると考えるアニミズム信仰が行われた。災いを避け豊作を祈る呪術において、土偶・石棒が使用された。また抜歯が通過儀礼として、屈葬が死者霊の災いの回避のため行われたとされる。
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 その後の古墳時代前期には、三角縁神獣鏡その他の呪術的・宗教的色彩の銅鏡・腕輪・農武具が、副葬品として使用された。古墳時代後期までには仏教が伝えられた。弥生時代同様、農耕祭祀として、祈年(としごい)の祭りや新嘗(にいなめ)の祭りが行われた。山、高木、巨岩、孤島、川淵などに神が宿ると考えられ、そこが後に神社所在地となった場合がある。氏神(祖先神)の祀りも始まったらしい。穢(けが)れや災いを避ける禊(みそぎ)・祓(はらえ)、吉凶占いの太占の法、裁判で証言の真偽判定に使う盟神探湯(くかたち)も行われた。
 
 [[日本史 飛鳥時代|飛鳥時代]]の蘇我氏・王族による飛鳥文化は、在来信仰と融合させつつ仏教を取り入れた。信仰行為の一種としての仏像製作なども後の時代の含めて行われていく。700年前後の白鳳文化期は、天武天皇や豪族らにより仏教興隆が進められた。大宝律令は中央行政組織の一官として神祇官を定めた。
 
 710年から始まる奈良時代には、聖武天皇が、仏教をもとにする現世利益的な鎮護国家思想をもち、国分寺・国分尼寺建立や大仏造立を進めた。奈良の大寺院には南都六宗が形成され、仏教理論研究がされた。神宮寺(神社内の寺)を建てるなど、神仏習合思想も興った。
 
 710年から始まる[[日本史 奈良時代|奈良時代]]には、聖武天皇が、仏教をもとにする現世利益的な鎮護国家思想をもち、国分寺・国分尼寺建立や大仏造立を進めた。奈良の大寺院には南都六宗が形成され、仏教理論研究がされた。神宮寺(神社内の寺)を建てるなど、神仏習合思想も興った。
 平安時代は、初期に最澄・空海らが、中国から南都六宗とは別の仏教教学である天台宗・真言宗、密教を取り入れた。そして曼荼羅等の密教芸術が発展した。両宗が一面にもつ加持祈禱(かじきとう)による現世利益という信仰形態が貴族らに受け入れられた。仏教と山岳信仰が結合して、修験道も生まれた。神仏習合の傾向も強まり、摂関政治期には、神は仏の化身とする本地垂迹説が生まれた。摂関期以降には、現世の利益ではなく来世の幸福を求める浄土教も、末法思想のもと流行した。平安後期の院政期には、法王らが熊野詣(神社)や高野詣(寺)を行った。寺院に所属しない民間仏教徒の聖(ひじり)・上人(しょうにん)が浄土教を全国に広め、地方豪族により阿弥陀堂や浄土教美術が残された。末期に政権をとった平氏は、納経して(平家納経)、安芸の厳島神社を信仰した。
 
 [[日本史 平安時代|平安時代]]は、初期に最澄・空海らが、中国から南都六宗とは別の仏教教学である天台宗・真言宗、密教を取り入れた。そして曼荼羅等の密教芸術が発展した。両宗が一面にもつ加持祈禱(かじきとう)による現世利益という信仰形態が貴族らに受け入れられた。仏教と山岳信仰が結合して、修験道も生まれた。神仏習合の傾向も強まり、摂関政治期には、神は仏の化身とする本地垂迹説が生まれた。摂関期以降には、現世の利益ではなく来世の幸福を求める浄土教も、末法思想のもと流行した。平安後期の院政期には、法王らが熊野詣(神社)や高野詣(寺)を行った。寺院に所属しない民間仏教徒の聖(ひじり)・上人(しょうにん)が浄土教を全国に広め、地方豪族により阿弥陀堂や浄土教美術が残された。末期に政権をとった平氏は、納経して(平家納経)、安芸の厳島神社を信仰した。
 鎌倉時代は、仏教が、祈禱などの貴族の行うものや、経典解釈研究のみでなく、農民・武士・商工業者等より広い階層が関われるものとして、念仏(南無阿弥陀仏)、悪人正機説、踊念仏、題目(南無妙法蓮華経)、坐禅などが、法然らの祖師により説かれた。その刺激により以前からの南都六宗も貧人・病人救済事業を行った。禅宗はこの時期に中国から取り入れられ武士層に広まった。修験道も広く行われ、仏教建築・彫刻・絵画も引き続き制作された。
 
 [[日本史 鎌倉時代|鎌倉時代]]は、仏教が、祈などの貴族の行うものや、経典解釈研究のみでなく、農民・武士・商工業者等より広い階層が関われるものとして、念仏(南無阿弥陀仏)、悪人正機説、踊念仏、題目(南無妙法蓮華経)、坐禅などが、法然らの祖師により説かれた。その刺激により以前からの南都六宗も貧人・病人救済事業を行った。禅宗はこの時期に中国から取り入れられ武士層に広まった。修験道も広く行われ、仏教建築・彫刻・絵画も引き続き制作された。
 室町時代は、禅宗の臨済宗が幕府の保護で栄え、足利義満の金閣が禅宗様を折衷し、官寺制度の五山・十刹の制が作られ、中国の渡来僧らが水墨画などを伝えた。義政の銀閣も禅の精神に基づいた。一方で神道思想による日本書記研究がされ、吉田兼倶(かねとも)は反本地垂迹説により唯一神道を立てた。幕府が衰えると、五山の制に対するものとして、禅宗諸派が自由な布教を行った。日蓮宗が京都に進出し、他宗と争い、法華一揆を結び、天台宗延暦寺との対立(天文法華の乱)も行われた。鎌倉時代の親鸞の浄土真宗も蓮如らの活動により広まった。
 
 [[日本史 室町時代|足利時代]]は、禅宗の臨済宗が幕府の保護で栄え、足利義満の金閣が禅宗様を折衷し、官寺制度の五山・十刹の制が作られ、中国の渡来僧らが水墨画などを伝えた。義政の銀閣も禅の精神に基づいた。一方で神道思想による日本書記研究がされ、吉田兼倶(かねとも)は反本地垂迹説により唯一神道を立てた。幕府が衰えると、五山の制に対するものとして、禅宗諸派が自由な布教を行った。日蓮宗が京都に進出し、他宗と争い、法華一揆を結び、天台宗延暦寺との対立(天文法華の乱)も行われた。鎌倉時代の親鸞の浄土真宗も蓮如らの活動により広まった。
 戦国時代には、1549年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着し、大名の保護のもとキリスト教布教をした。宣教師らは教会堂などを建て、キリシタン大名が生まれた。織田信長は1570年以降、比叡山延暦寺を焼打ち、浄土真宗一向一揆を屈服させた。豊臣秀吉は当初キリスト教布教を認めたものの、大名の入信の許可制化、バテレン追放令発布をした。ただ貿易活動と一体であったキリスト教布教は続けられていった。
 
 [[日本史 戦国時代|戦国時代]]には、1549年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着し、大名の保護のもとキリスト教布教をした。宣教師らは教会堂などを建て、キリシタン大名が生まれた。織田信長は1570年以降、比叡山延暦寺を焼打ち、浄土真宗一向一揆を屈服させた。豊臣秀吉は当初キリスト教布教を認めたものの、大名の入信の許可制化、バテレン追放令発布をした。ただ貿易活動と一体であったキリスト教布教は続けられていった。
 江戸時代は、幕府は皇子(みこ)らが出家・居住した寺院を朝廷の一員とみなして統制した。また寺院法度で仏教宗派ごとに、諸宗寺院法度で仏教僧全体を、諸社禰宜神主法度では神社・神職を統制した。キリスト教に対しては、絵踏を行い、寺受制度で仏教への転宗を強制した。キリスト教とともに日蓮宗不受不施派を禁じ、誰もが檀那寺をもつようにした。神道・修験道・陰陽道は仏教に準じて容認された。江戸初期には過酷な年貢とキリスト教徒弾圧に対し島原の乱がおこったが鎮圧され、さきの絵踏が進められた。また家康を祖霊として祀る日光東照宮など霊廟建築が流行し、神社建築も行われた。江戸中後期は、寺社が縁日・開帳・突富を催して人を集め、善光寺等への寺社参詣が盛んだった。伊勢神宮への爆発的参詣の御蔭参りが数百人規模でおこった。聖地・霊場の巡礼や、彼岸・盂蘭盆などの仏教的行事、庶民信仰の康申講が行われた。平田篤胤が日本古来の純粋な信仰を尊に仏教・儒教を排斥する復古神道を立て、各地の豪農・神職に浸透し、幕末には政治運動と結びついた。幕末には天理教などの民間宗教(教派神道)が生まれていた。
 
 [[日本史 江戸時代|徳川時代]]には、徳川幕府は皇子(みこ)らが出家・居住した寺院を朝廷の一員とみなして統制した。また寺院法度で仏教宗派ごとに、諸宗寺院法度で仏教僧全体を、諸社禰宜神主法度では神社・神職を統制した。キリスト教に対しては、絵踏を行い、寺受制度で仏教への転宗を強制した。キリスト教とともに日蓮宗不受不施派を禁じ、誰もが檀那寺をもつようにした。神道・修験道・陰陽道は仏教に準じて容認された。江戸徳川時代初期には過酷な年貢とキリスト教徒弾圧に対し島原の乱がおこったが鎮圧され、さきの絵踏が進められた。また家康を祖霊として祀る日光東照宮など霊廟建築が流行し、神社建築も行われた。江戸中後期は、寺社が縁日・開帳・突富を催して人を集め、善光寺等への寺社参詣が盛んだった。伊勢神宮への爆発的参詣の御蔭参りが数百人規模でおこった。聖地・霊場の巡礼や、彼岸・盂蘭盆などの仏教的行事、庶民信仰の康申講が行われた。平田篤胤が日本古来の純粋な信仰を尊に仏教・儒教を排斥する復古神道を立て、各地の豪農・神職に浸透し、幕末には政治運動と結びついた。徳川時代には天理教などの民間宗教(教派神道)が生まれていた。
 明治時代は、1868年に神仏分離令により、古代からの神仏習合を禁じて、神道の国教化がされた。それにより廃仏毀釈が行われた。その他の政策により神道を用いた国民教化が図られた。政府公認のもと教派神道が庶民に浸透した。キリスト教禁教も継続し、隠れキリシタンは迫害を受けたが、列強の抗議で黙認されるようになった。キリスト教は内村鑑三ら青年知識人に広まったが圧迫を受けた。
 
 [[日本史 戦前|帝国時代]]は、1868年に明治維新政府が出した神仏分離令により古代の神道を破棄して「天皇教」に基づく国家神道を国教とした為、廃仏毀釈が展開された。これは、タリバンや紅衛兵と同様の文化破壊運動であった。タリバンや紅衛兵と同様の明治政府の政策により、「天皇教」に基づく国家神道を用いた国民教化が図られた。政府公認のもと教派神道が庶民に浸透した。キリスト教禁教も継続し、隠れキリシタンは迫害を受けたが、列強の抗議で黙認されるようになった。キリスト教は内村鑑三ら青年知識人に広まったが圧迫を受けた。廃仏毀釈や日清戦争を初め戦死者祭祀が神社で行われるようになった。日中戦争帝国代末期に神社が戦勝祈願や祈を行い、集団参詣が励行され、昭和151940、国には「皇」政策を担う神祇院が設立された。
 
 [[日本史 戦後|国民主権時代]]は、GHQによって軍国主義と「天皇崇拝教」の思想的基盤であった国家神道が解体され、戦後憲法によって政教分離が進められ、信教の自由が保障された。しかし、「天皇教」の指導者たちは、自民党や神社本庁となって生き残った。
 
==仏教==