「中学校社会 歴史/江戸幕府の始まり」の版間の差分

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*[[歴史]] > [[日本史]] > 江戸時代
 
'''江戸時代'''とは、[[w:徳川将軍家|徳川将軍家]]が日本を統治した時代である。名称は、府の所在地である江戸に因む。'''徳川時代'''とよばれることもあるいう
 
==概略==
1600年に[[w:徳川家康|徳川家康]]が[[w:関が原の合戦|関が原の合戦]]に勝利し、当時の[[w:後陽成天皇|後陽成天皇]]より[[w:征夷大将軍|征夷大将軍]]に任命された1603年3月24日(慶長8年旧暦2月12日)から、[[w:徳川将軍家|徳川将軍家]]の居城である[[w:江戸城|江戸城]]が薩摩藩・長州藩を主力とする[[w:明治政府|明治政府軍]]に[[w:江戸開城|明け渡された]]1868年5月3日(慶応4年/明治元年旧暦4月11日)までの265年間を指す。
 
長らく続いてきた[[w:戦国時代 (日本)|戦国時代]]と[[w:豊臣秀吉|豊臣秀吉]]死後の時局の収拾と荒廃していた産業・教育・文化の振興に力を注ぐと共に、大坂冬・夏の陣で豊臣軍についてきた政治勢力を一掃し、長期にわたる政治的・経済的不安は終わった。
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265年もの長きにわたり、相対的にも安定的な政治体制を維持できたのは世界史的にみても驚異で、「天下泰平」という時代を作った。徳川将軍は15代[[w:徳川慶喜|慶喜]]まで続いた。
 
==府==
1603年、徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた。2代将軍[[w:徳川秀忠|秀忠]]・3代将軍[[w:徳川家光|家光]]の時代に幕府のしくみが完成した。
 
まず、将軍の下に[[w:老中|老中]]を置き政務を統括し、それを[[w:若年寄|若年寄]]たちが補佐した。加えて、[[w:寺社奉行|寺社]]・[[w:町奉行|町]]・[[w:勘定奉行|勘定]]の三奉行を設け、地方には[[w:京都所司代|京都所司代]]・[[w:大坂城代|大坂城代]]・[[w:郡代|郡代]]・各種[[w:代官|代官]]を配置し、それによって[[w:天領|天領]]を統括した。これらのポストは基本的には[[w:譜代大名|譜代大名]]や[[w:旗本|旗本]]から任命した。
 
一方で、地方は戦国時代以来の大名が領地を支配し、各地域の政治を行った(支配している地域とその支配の仕組みを合わせて[[w:藩|藩]]という)。また、各藩は徳川幕府に従い、農民に対しては「年貢」と呼ばれる税を課していた。
 
江戸時代は徳川将軍(連邦王国)と大名(地方王国)による支配連邦体制がとられ、その支配体制を[[w:幕藩体制|幕藩体制]]という。外国でも、この体制は[[w:ドイツ帝国|ドイツ帝国]]も見られた現象で、ドイツ帝国で言えばプロイセンの君主が徳川将軍に、ドイツ帝国に加入した王国(バイエルン王国など)が藩に相当する
 
===大名の種類===
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===参勤交代制度===
[[w:徳川家光|家光]]の時代に、[[w:武家諸法度|武家諸法度]]で毎年4月を[[w:参勤交代|参勤交代]]の時期と定めた。徳川幕府への反乱を防ぐため、江戸に妻子を「人質」として住まわせ、往復の旅費や江戸生活の出費をさせることで幕府の安泰を図った。大名が江戸に住まう期間は1年間であったが、8代将軍[[w:徳川吉宗|徳川吉宗]]が1722年に定めた[[w:上米の制|上米の制]]により半年に短縮された。
 
これにより江戸は各方面からの人・物資の往来等で栄えたが、他方では農民に重税を課した為、農村の疲弊や[[w:一揆|百姓一揆]]を招いた。
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==鎖国==
江戸徳川幕府はヨーロッパ諸国の軍事的・宗教的干渉を極度におそれ、鎖国政策を採った。鎖国の直接要因となった出来事は[[w:島原・天草の乱|島原・天草一揆]]であり、[[w:キリスト教|キリスト教]]徒と農民が結合して一揆に向かう恐れと、さらには[[w:スペイン|スペイン]]・[[w:ポルトガル|ポルトガル]]といった日本への布教国が植民地化を画策していると見て危険視し、鎖国を断行した。
 
ただし、長崎(出島)で[[w:オランダ|オランダ王国]]・[[w:清|清]]と、対馬藩を通じて[[w:李氏朝鮮|李氏朝鮮]]の3か国のみ貿易を行っていた。
 
==身分制度==
江戸時代は身分制度が厳しく定められた時代でもある。豊臣秀吉も身分統制令を出すなどをして、第二の秀吉の登場をなくす、つまり下剋上を防いだ。この政策を徳川王朝幕府は受け継ぎ、江戸時代は主に、百姓・町人・武士に身分が分かれることとなった。
 
*百姓