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政治とは何のために行われる活動であるのか、という目的論的な設問は規範的な問題意識を含まざるを得ない。この論点については政治学の議論において複数の立場が主導権を争奪し合う状況がある。ここでは関連が深い政治イデオロギーの説明を別の箇所に委ねるものとし、政治の目的について正義の理論、統治の意義、そして人間の存在という三つの観点からどのような学説が提示されているのかを概観することで、一般的な理解を促すこととする。
 
==== 正義と政治 ====
[[ファイル:Platon-2.jpg|thumb|right|150px|プラトン(前427-347年)はアテナイの哲学者。貴族階級の出身で政治家を目指していたが後に哲学を志す。哲学者ソクラテスから教えを受けた経験があり、アカデメイアに入学した後に教育にも従事した。理性によって把握する世界の本質であるイデアを提唱し、人間や国家が備えるべき正義イデアについて研究を進めた。政治学に関する著作には『国家』、『法律』など。]]
政治(politics)は古代ギリシアの都市国家(polis)に由来する言葉であり、政治とは国事と特徴付けられる。ならば政治とは国家がどのような状態にあることを促す活動であるのか。この問題に対する最も古い学説は正義と関係している。古代ギリシアの哲学者プラトンは当時のアテナイの政情を批判的に検討することで、正しい国家のモデルを構築していった。そのモデルでは正義を備えた理想国家を目的とし、また国家が堕落することを回避するための理性的な活動として政治の役割が期待されている。プラトンによれば正しい国家が保持しなければならない正義は理論的には三つに区分され、理知的部分の叡智、気概的部分の勇気、そして欲望的部分の節制である。これら三部分はそれぞれ哲人である守護者、国防を担う軍人、そして生産活動に従事する庶民という三つの社会階級によって分担されている。これら三種類の正義が正しく分担され、また正しく機能している状態で調和していることが国家の基礎である。この調和が失われれば人間の魂は不必要な快楽や過剰な消費願望のために「野獣」のそれへと堕落し、国家もまた最悪な状態「豚の国家」へと堕落する。プラトンの政治哲学は国家の正義を通じて個人の精神をも正義へ方向付けることを試みている。このような正義と政治を総合して把握する見方はプラトンだけでなく、古代ギリシアの哲学者アリストテレスによっても示されている。アリストテレスはあらゆる存在は素材を通じて目的に沿った自己形成するものと捉え、人間もまた善を追求する存在と考えた。そして節制、賢慮、友愛、中庸などの個人の善についての倫理学的な研究を進め、さらに国家の善を明らかにする「最高の倫理学」として政治学を位置づけている。ただしアリストテレスが模索していたのはプラトンのような国家の道徳的モデルではなかった。彼は人間が生まれながらにして政治的な動物であり、人間集団として家族、村落の延長線上に国家があることを主張する。そして国家を構成する君主制や僭主制などそれぞれ特徴があるいくつかの政体は変化するものであり、最善の政体はそれらを組み合わせた中間の混合政体であると考えた。そしてその担い手となる社会的基盤として統治者にも被治者にもなりうる中流階級という市民の存在意義を強調した。そしてその国家が果たすべき正義については市民の同質性に関わる一般的正義と市民の平等性に関わる特殊的正義の二つを以って政治の役割を描き出している。
 
==== 統治と政治 ====
[[ファイル:Santi di Tito - Niccolo Machiavelli's portrait.jpg|thumb|right|150px|ニッコロ・マキアヴェリ(1469年-1527年)はフィレンツェの行政官。フィレンツェの外交交渉や軍制改革に携わっただけでなく、古代ローマの歴史について研究していた。政治から道徳を切り離して権力政治という側面に着目する古典的な現実主義の議論を行った。著作には『君主論』、『政略論』など。]]
政治の目的は国家の在り方を正義によって規定するだけではなく、国家を実際的に運営することと関連して捉えることもできる。この統治技術としての政治の視点は近世フィレンツェの行政官であったニッコロ・マキアヴェリによって議論されている。マキアヴェリは統治者に不可欠な資質として正義を判断する道徳的な能力よりも、時には統治のために必要な残虐な手段を活用する能力を強調した。彼は国家にとって真に必要なものとは「よい法律とよい軍備」であり、被治者である「民衆というものは、頭をなでるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならない」と指摘した。またマキアヴェリが統治の上で特に重要視した事柄に軍事的安全保障がある。自国民から組織された軍隊を常に準備することによってのみ敵の侵略から国家を防衛できると考えて、実際に当時の軍制改革に取り組んでいる。彼にとって政治とは権謀術数であり、国家秩序を安定的に統治する目的が念頭に置かれている。一方でアメリカの政治学者デイヴィッド・イーストンは国家の運営についてマキアヴェリとは異なる視点を提示している。イーストンは政治を「価値の権威的配分」であると定義しており、具体的には政府が国内において社会からの要請に応じて利益、報酬や刑罰を再配分することと考える。この観点からすれば政治は本質的には社会にどのように財産や地位などの経済的、社会的な価値を分配していくかを決定する社会の集団的な決定と見なすことができる。社会の中で財が再配分される過程でさまざまな社会集団の計画的な行動とそれら相互の妥協が繰り返される。ただし政治においてこの価値は無条件に社会全体に分配されるとは限らない。社会全体における価値の偏在と政治の関係について論じた論者に社会主義思想家のカール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスがいる。彼らは近代の産業社会の経済学的分析によって資本主義の原理を明らかにした。そして資本主義体制の下では価値を継続的に蓄積する資本家という社会階級と労働の過程において価値を搾取される労働者という社会階級がおり、両者の利害が対立する階級闘争を政治の目的と捉えた。
 
==== 人間と政治 ====
[[ファイル:Hannah Arendt.jpg|thumb|right|150px|ハンナ・アーレント(1906年-1975年)は政治哲学者。ドイツに生まれマールブルク大学などで哲学を学び、後にユダヤ人迫害を逃れて亡命し、アメリカで研究を進めた。全体主義や人間の政治的な本性、また革命についての考察を行っている。彼女の著作には『全体主義の起源』、『人間の条件』、『革命について』など。]]
国家の理念や運営から政治の目的を定義するだけでなく、より根本的な人間の本性から定義することも可能である。ドイツの公法学者カール・シュミットの友敵理論は政治をより原理的に定義することを試みている。シュミットはそれまでの議論が「政治的」なものと「国家的」なものが同一視されたために循環論法に陥っていると指摘した。それは人間のさまざまな行動の領域としての道徳、経済、または芸術に対する一個の独立した領域して定義しなければならないと論じた。そして道徳的領域での究極的な指標が善悪であり、経済的なそれは利害であると考えた場合に、政治的領域での基準とは友と敵の区分に求められると判断した。ここでの敵とは個人的な憎悪の対象ではなく、「現実的可能性として抗争している人間の総体」であり、その反対が友である。つまり政治とは本質的に友と敵の闘争を意味しており、しかも「一国民があらゆる政治的決定を放棄することによって、人類の純粋道徳的ないし純粋経済的な状態を招来することなどありえない」のである。人間の本性の別の角度から政治の本質を明らかにしようと試みてポリスの理論を展開したドイツの政治学者ハンナ・アーレントは人間の営みを自らの生命を維持する労働、ある程度の耐久性を備えた生産物を生み出す仕事、そして物質ではなく言語によって媒介される活動の三種類に区分し、活動によって創出される古代ギリシアのポリスに象徴される公的領域が創出、維持され、政治はこの領域に属する活動として営まれる。この公的領域おいては人間は生活の不自由から隔離された精神の自由があるものの、言語コミュニケーションには誤解が生じる不確実性や一度生じた対話はやり直せない不可逆性という問題がある。しかし不確実さを回避する約束という活動や、一度生じた対立を和解する許しが政治的解決法があるとして、「政治的であるということは、ポリスで生活するということであり、ポリスで生活するということは、全てが力と暴力によらず言葉と説得によって決定されるという意味であった」と政治を特徴付けている。
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政治は何らかの社会のあり方に関わる目的と同時に、それを実現するための手段を伴う活動である。社会で展開される政治的な相互作用において有効な手段として権力(power)が政治学の概念として認められている。権力とは広義において他者に対してある行動を行わせる能力であるが、権力の概念をどのように見出すかについては政治学において議論が分かれている。伝統的な政治学はそれまで国家や政府の正当化について検討してきたが、イギリスの哲学者デイヴィッド・ヒュームによって現実の政治において権力が重要な機能を果たしていることが明確に認識された。彼はどのような政府の起源も強奪や征服に基づいて立ち上げられてきており、移住、植民地化、軍事的勝利などの政治的な出来事が武力や暴力によってもたらされてきたと歴史を観察した。ヒュームの視座は理想の政治だけではなく、事実として政治がどのように成り立っているかを権力の概念を通じて解明することを可能とした。しかし権力は二人以上の主体の間に発生し、その程度と機能によって異なっている。
 
==== 権威と政治 ====
[[ファイル:Max Weber 1894.jpg|thumb|right|150px|マックス・ウェーバー(1864年-1920年)は社会学者。プロイセンに生まれ、ハイデルベルク大学を卒業後に各地の大学で講師や教授として勤務して研究活動を続けた。社会科学の幅広い諸領域で業績を残しており、特に理解社会学の確立や支配の正統性や官僚政治の分析に寄与した。著作には『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、『支配の社会学』など。]]
権威(authority)とは正当化された権力である。したがって、権力が一般に他人に何らかの行動を行わせる能力であるが、権威は行為者にとっては何らかの行動を行わせる権利(right)として機能し、対象者にとっては服従しなければならない義務(duty)として機能する。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーはこの権威を構成している道徳的根拠の正当性(legitimacy)を分析するために、三つに類型化している。第一の類型は伝統や慣習などの歴史に基づいた伝統的正当性である。伝統的な正当性に基づいた支配は意図的に作り出すことはできず、歴史の中で承認されることで成立する。この種類の正当化によって支えられている社会の首長は氏族、奴隷、家臣、農民などを従えて、権限は伝統によって定められた慣習と首長の自由裁量の二つの要因によって決定される。このような権威を基礎付けるための専門の組織を長老制や家父長制の社会は持たないが、家産制の社会では成立している。家産制の社会では臣民は首長に身分制的な秩序に基づいて服従し、首長は部下を使って伝統的な権威に基づく命令を発することができる。伝統的な正当性に比べれば特定の人格に対する崇拝に基づいたカリスマ的正当性は突発的に構築しうるものである。カリスマとはある人物の資質が被支配者によって承認され、またその人物は被支配者に幸福をもたらすことが可能であることによって成り立つ。カリスマ的な首長は自らの正当化のために伝統や法律を活用することがあったとしても、その起源とは本質的には無関係である。カリスマ的な権威を社会秩序の中で恒常化するためにはカリスマ的な人格を継承する後継者の問題が生じる。この後継者の選抜は特定の指標に基づいて妥当に選抜するための特別な手続が必要となる。このようなカリスマ的な権威の問題に比べれば合法的な正当性は安定的に持続する。非人格的な法に基づいた合法的・合理的正当性である。近代社会において権威は法と密接に関係しながら配分されており、特に人々を支配する役割を担う政治制度は普遍的な権威を備えている。合法的な正当性の妥当性はその社会の中で承認されている非人格的な法に従い、特定の人格に対しては従わないことにある。したがって合法的な権威に服従することは特定個人への無制限の服従するのではなく、限定された管轄権の範囲内で上司に服従することを意味する。権限の限界、階層制度、文章主義などに基づいた合法的な権威は正確かつ規律ある支配を可能とする。
 
==== 影響力と政治 ====
[[ファイル:Lasswell coperta.jpg|thumb|right|150px|ハロルド・ラスウェル(1902年-1978年)はアメリカの政治学者。シカゴ大学で政治学を修め、第二次世界大戦後には主にイェール大学で教鞭をとっていた。シカゴ学派の影響の下で行動主義の観点から大衆社会の政治分析や政治的影響力についての行動分析を行っている。著作には『政治』、『人間と権力』など。]]
権威は制度的で公式な権力の形態であるが、権力は影響力(influence)という非制度的で非公式な形態を伴いながら人々に作用を及ぼすこともある。アメリカの政治学者ハロルド・ラスウェルによれば、影響力の本質とは人間が追求する価値の剥奪にある。つまり、ある行為の形式に違反すれば富、健康、技能、尊敬などの重大な価値を剥奪することへの不安から権力関係が発生する。社会全体の中では制度的には整然と権力が配分されていたとしても、現実の政治では制度を超えた権力関係が発生する。この非制度的な政治の側面は1920年代から政治過程論としてグレアム・ウォーラスなどによって研究されるようになる。この分野の研究が進むにつれて制度設計の段階では考慮されていなかった影響力が実際の政治において重要な役割を果たしていることが論じられるようになる。アメリカの社会学者ライト・ミルズは支配的な影響力を保有している一部の勢力をパワー・エリートと概念化し、アメリカの政治構造を研究した。すると政治、経済、軍事の分野にそれぞれパワー・エリートが存在し、彼らは自らに有利な政治構造を維持するためにエリート同士で連携しながら大衆を操作していると指摘した。ミルズは伝統的な政治学が検討してきた表面的な制度ではなく影響力の構成を明らかにすることで政治の動態を支配している集団を特定することを試みている。また影響力についてアメリカの政治学者ロバート・ダールによって異なる見解が提示されている。ダールは影響力を保有しているエリートが社会全体に分散しており、利害も多様であると捉えた。そしてミルズが述べているようにエリートが一極集中して大衆を支配している構図を否定して、多種多様なエリートが多元的に社会に影響力を通じて対立もしくは協力している。
 
==== 規律と政治 ====
[[ファイル:M.Foucault.jpg|thumb|right|150px|ミッシェル・フーコー(1926年-1984年)はフランスの哲学者。高等師範学校を卒業し、リール大学やウプサラ大学で講師を勤めた後にコレージュ・ド・フランスで哲学を教えた。精神医学の歴史叙述や科学的な知識と社会的諸制度の関連から権力と知の関係について考察した。著作には『狂気の歴史』、『監獄の誕生』など。]]
権威や影響力とは正当性や資源を操作することによって人々を動かす明示的な権力であるが、これ以外にも潜在的で権力を行使されていることすら意識されない黙示的な権力の形態が存在することが論じられている。フランスの哲学者ミッシェル・フーコーは今日の社会には伝統的な権力の概念では理解することができない権力装置が存在することを論じるために、近代における刑罰システムの歴史的な変化に注目する。そしてそれまで18世紀において拷問や殺害という身体に対する刑罰が見直され、身体的な拘束などの内面に対する刑罰へと改められたことを明らかにする。フーコーはこの変化は単なる人道的配慮に基づく改革としてではなく、新しい新しい形態の権力の成立として見なす。つまり「より少なく処罰するのではなく、よりよく処罰すること」を追求するために、新しい権力の対象である人間の「精神」が生み出され、同時にそれまでとは異なる身体に対する権力が登場した。具体的には各人を独房的な空間に配分した上で彼らを一覧表に沿って組織化し、身体の動作を時間的に細分化してコード化し、またその過程は段階的に訓練し、また身体の諸要素を組み合わせて権力装置の部品となるよう振舞わせるのである。この一例としてフーコーは18世紀に軍隊で普及した基本教練の技術を例示しており、部隊に配属された兵士たちに命令に応じて特定の動作をするように段階的に訓練し、組織的な戦闘行動を行うことが可能となるようにした。このことで個人を権力行使の客体に再構成するのである。フーコーはこのような「服従する身体」を作り出す形態の権力を「規律」としており、この規律の権力装置が応用された刑務所にパノプティコンがあると述べる。パノプティコンでは常に自分が監視の対象にあることを囚人に自覚させることで規律を内面化させることが意図されている。そして、パノプティコンだけではなく、規律は現代の学校、工場、軍隊などで幅広く普及していると指摘する。
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アリストテレスは古代ギリシア世界における都市国家の分析を通じて政体の分類を理論としてまとめ、彼の学説は長期に渡って政治学に影響を与え続けてきた。アリストテレスが重要視した分類の基準は二つあり、それは「誰が統治するのか」という点と「統治から誰が便益を受けるか」という点にあった。彼によれば政府組織は個人によって指導されている場合と、少数の特権的な集団によって指導される場合、そして社会全体の中の多数者によって指導される場合があるものと考えた。しかしいずれの場合においても、政府組織は共同体全体に便益をもたらす場合と、政府組織を構成する統治者のためのみに便益をもたらす場合があると考えた。したがって、アリストテレスの政体の理念型には統治者によって三種に分類され、さらに統治の性質によってそれら三種類が二分され、合計六種類の政体の分類法が導き出される。これら六種類にはそれぞれ名称が与えられており、単独の統治者が統治者のための統治を行っている政体は僭主制(tyranny)、単独の統治者が共同体のための統治を行っている政体は君主制(monarchy)である。また少数の統治者が統治者のための統治を行う政体は寡頭制(oligarchy)であり、少数の統治者が共同体全体のための統治を行う政体は貴族制(aristocracy)である。さらに多数の統治者が統治者のための統治を行う政体は衆愚制(democracy)であり、多数の統治者が共同体のための統治を行う政体は民主制(polity)である。この六政体の中でも君主制、貴族制、民主制は社会全体の利益をもたらすものであるために比較的望ましい政体であり、全ての政体の中で僭主制が市民を奴隷の地位に貶める最悪の政体となりうると論じ、一方で君主制は統治者自身の利益である前に神の意志に依拠するために社会のための統治が行われると評価する。民主制は制度の中では最も実践的な政体であるものの、扇動者の影響を受けやすい。このように政体にはさまざまな一長一短があるために、アリストテレスは混合政体(mixed constitution)を主張し、貴族制と民主制を組み合わせて特に豊かでも貧しくもない中産階級の手によって統治を行うことを構想している。アリストテレスの理論は近代の政治思想にも影響を与え、ジャン・ボダン、トマス・ホッブズ、ジョン・ロック、モンテスキューなどにも参照された。例えばモンテスキューの著作では政府権力の分立と相互的な監視機能に注意が払われており、単一の政治機構が公益を損なうようになったとしても、他の政治機構によってそれを抑制することが可能となるような複合的な政治機構を計画した。今日においても近代国家の制度として三権分立の機能は実際に適用されている。
 
==== 冷戦の世界分類 ====
[[ファイル:Francis Fukuyama BH.jpg|thumb|right|150px|フランシス・フクヤマ(1952生)はアメリカの政治評論家。シカゴで生まれ、ハーバード大学で政治学を修め、ランド研究所やジョージ・メーソン大学での教鞭をとる。冷戦後の世界政治についてイデオロギーの対立に民主主義が勝利したことを論じたことで知られる。彼の著作には『歴史の終わり』、『大崩壊の時代』など。]]
政体の分類は現実の政治において敵と味方を区別する基準となり得るものである。少なくとも20世紀において政体に基づく分類は世界を二つに二分する政治的な言説として重要であった。歴史的な起源としては第一次世界大戦が終結してからスターリン主義のロシア、ファシズムのイタリア、ナチズムのドイツなどの政権が成立してそれまでには見られなかった政治制度を構築したことに求められるかもしれない。これらの政治体制は従来の民主主義の政体とは異なる全体主義として認識された。第二次世界大戦が終結し、イギリスの首相チャーチルによってヨーロッパ大陸が「鉄のカーテン」に東西に仕切られたと表明され、冷戦がアメリカとソビエトの間で本格的に開始されると、このような政体の二分法は冷戦イデオロギーへと発展した。冷戦イデオロギーは全世界の国家を政体やイデオロギー、経済状況を基準に三つに大別するものであり、資本主義(capitalism)の世界、共産主義(communism)の世界、そして発展途上(developing)の世界に分類する。アメリカを中心とする西側陣営は資本主義世界に該当するものであり、私企業の活動、自由市場、物質的誘因に特徴付けられる経済体制を持ち、また自由民主主義の理念に基づいた選挙によって政治指導者が選出される。共産主義の世界にはソビエトを中心とする東側陣営が該当し、社会的平等、集団化、計画的な生産活動に特徴付けられた経済体制を備え、また政党の活動は制限されており、共産党の政治活動によってのみ統治は行われている。発展途上の世界はアジア、アフリカ、ラテンアメリカにおける多くの発展途上国が含まれ、第三世界(Third world)とも呼ばれる。経済発展が遅れているために国民総生産も低く、伝統的な政治体制かもしくは軍事体制に基づいた権威主義の政体となっている。この冷戦イデオロギーに基づいた分類は政治的、戦略的な意図から20世紀の世界政治を理解する際にしばしば使用されていたが、1970年代に中東における産油国の経済成長、アジア各国の産業化、権威主義諸国の民主化などの第三世界の変容によって、現実から乖離するようになった。さらにソビエト崩壊によって冷戦が終結してからは東側陣営の諸国が経済の自由化や政治の民主化を進めたために、共産主義の世界の実体も変容した。アメリカの政治評論家であるフランシス・フクヤマはこの事態に対してイデオロギー的な政治闘争であった歴史は西側の自由民主主義の正義が勝利したことで集結したという意味の「歴史の終わり」を主張した。
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20世紀に復興した政治勢力の一つにイスラム教も挙げられる。イスラム教は北アフリカ、中東、アジアの一部において信仰されている世界宗教であるが、1970年代にマルクス・レーニン主義の政体が見直されるようになり、イスラム復興運動は政治運動としての社会的な支持を獲得するだけでなく、いくつかの事例では政体の再構築において重要な役割を果たしている。1979年に発生したイラン革命によってイランは宗教指導者ホメイニによりイスラム国家として再建され、スーダンやパキスタンでもイスラム教に基づいた政治改革が行われた。そもそもこのようなイスラム体制においてイスラム教とは単なる宗教ではなく、人生哲学であり、道徳を定義し、また国家と個人の政治的あり方を方向付けるものである。イスラム教はアラブにおいて啓示を受けた預言者ムハンマドにより創始され、イスラム共同体は歴史的には王朝の分裂や交代を経ながらも中東を中心に東南アジアから北アフリカに至る世界的な政治勢力へと発展した。イスラム的な政体は原理主義的な形態から多元主義的な形態までさまざまなものがある。イランは原理主義的なイスラム体制を選択しており、15名の聖職者から組織されるイスラム革命評議会を通じて宗教的権威を統治権力として制度化している。国民は選挙によって立法府を構成する代議士を選出することができるが、司法府はイスラムの教えを遵守する憲法保護委員会によって承認されなければ就任できない。シャリーア(Shari'a)というイスラムの法は1990年代の政治改革の後にも継続して法的または道徳的な原則として存在し続けてきた。またアフガニスタンのイスラム原理主義勢力であったタリバンはより厳格な神権政治を実践していた。一方で多元主義的な政体についてはマレーシアの事例を挙げることができる。マレーシアの国教はイスラム教であるが、国家の政治指導者は宗教指導者であるものの、その統治の形態としては民主主義に基づいた政体を採用している。異なる民族がそれぞれ多党制の枠組みの中で統合マレー国民組織などの政党を組織し、議会を運営してきている。
 
== 民主主義 ==
政治学における民主主義(democracy)についての議論は政治思想史において最も重要な論点の一つであった。古代ギリシアにおいてもプラトンやアリストテレスは民主主義的な理念や政体の是非を問題としており、彼らは民主主義を財産と知性を兼ね備えた市民による統治の体制であると捉えている。しかし近代に入った19世紀においては民主主義は大衆による統治を含意するようになり、現代では民主主義は世界各地の政体で一般的に導入されている。民主主義については自由主義者だけでなく、保守主義者、社会主義者、共産主義者、無政府主義者などの立場から議論が提出されており、民主主義の理念、民主主義体制の問題とその解決方法、民主主義の実践的モデルなどが示されてきた。
 
235 行
文化的または政治的に統一された国民の観念は1960年代以後に台頭した多文化主義の思想と対決するようになる。多文化主義の概念には一つの社会の中で複数の異なる文化的な集団が並存することで文化的な多様性がもたらされていることを記述する意味合いがある。これは人種的、民族的、言語的な多様性をそのまま保障されている多元的な社会に見出される特徴である。さらに多文化主義を規範的な観点から見れば、それは文化的な多様性を担う社会内部の諸々の集団に固有の信仰や言語の自由を尊重する思想的な立場である。ナショナリズムをめぐる政治動向は近代における国民国家としての同一性を問題としてきたが、多文化主義は同一性の差異と文化の多元性において許容されるべき範囲を問題とする。このような立場が出現してきた背景には人種主義への反省や移民の増大に伴う文化摩擦が問題となってきたためである。アメリカでは建国された当初から多様な人種や民族から形成された多民族国家であったが、多文化主義が政治問題として明確に争われるようになるのは1960年代に黒人に対する人種差別への批判が政治運動として成立してからであった。同じようにオーストラリアでも多文化主義が政府によって自覚的に政策の理念と位置づけられるようになったのは、アジアからの移民が増加していた1970年代に入ってからである。イギリスにおいて多文化主義は国内におけるアフリカ系やアジア系の文化的共同体と白人の文化的な軋轢を克服することを推進する立場となっている。このような多文化主義の古典的な説明にミルの考察を挙げることができる。ミルは社会が多元的であることが個人と社会にとって重要であると主張しており、それは道徳的、文化的、宗教的な信念を選択する余地があることは本質的に個人の自由を保障するためであり、同時に多様な価値観は民主的な議論の健全な活性化をもたらすことで社会を発展させることができるためである。またバーリンは多文化主義が価値の多元主義として理解できることを示唆することで多文化主義の理論を基礎付けた。彼は人間にとって普遍的に良い生活の観念は実在せず、数多くの観念の競争が実在すると考えた。つまり、個人について考える限り、人生の価値や目標をめぐる競合がなけれならない。また社会についても、政治的な空間を人々が共有できるように道徳的、文化的な信念を許容しなければならない。
 
== 国際政治 ==
国民国家が統一的な行為主体として捉えられ、また国家間の利害の一致や対立が増大するに従って、近代的な国際関係が構築された。国際政治とは国際関係において発生する政治的な相互作用であり、現代の国際政治は特定の地域における国際関係だけではなく、地球全域に及ぶ範囲の国際関係を扱っている。伝統的な理解では国家が国際政治において最重要の行為主体であり、したがって国内政治と国際政治には明確な区分を設けることが適当と考えられた。したがって国際政治とは国境の外側で発生する事態であると見なすことができるが、後に社会のグローバル化が進むにつれて国内政治と国際政治の絶対的な区別を見なおす見解も示されている。ここでは国際政治のこのような変化について理解するために、国際政治を説明する主要な立場と世界秩序を規定する構造について述べる。
 
285 行
====民族集団====
[[ファイル:Marcus Garvey 1924-08-05.jpg|thumb|right|150px|マーカス・ガーベイ(1887年-1940年)はジャマイカ出身の実業家であり政治活動家。イギリスの新聞社で働いた後に母国で黒人問題に関わるようになり、アメリカで貿易会社を立ち上げる一方で黒人の地位向上を求める政治運動を指導し、強制送還された後は政治家となった。著作には『マーカス・ガーベイの哲学と意見』、『人々へのメッセージ』など。]]
第二次世界大戦が終結してから世界各地で民族意識の高まりがすすみ、1960年代には政治における民族性が重要な問題となった。このような事態は近代国家におけるナショナリズムの成立によって重要性を失ったという考え方を揺るがした。実際に民族集団を中心とした政治運動は1960年代から1970年代にかけてカナダのケベック、イギリスのスコットランドやウェールズ、スペインのバスクなどで盛り上がりを見せていた。アメリカにおいてもこの時期には黒人運動が注目するべき政治勢力にまで成長し、彼らはマーカス・ガーベイやマーティン・ルーサー・キングのような指導者の下でアフリカへの帰還をスローガンとしながら政治運動を展開した。この黒人という民族性で団結した政治運動は過激な革命的な立場から穏健な修正的な立場までを包括しており、黒人の権利や政治的環境に対する主張を展開した。このような黒人による政治運動はアメリカ国内における民族政治の側面を浮き彫りにし、白人からの人種的な抑圧に対する抵抗に起因していた。黒人の民族的なアイデンティティは支配的な白人文化と対決することを可能とし、伝統的に形成されていた白人に対する黒人の従属を拒否する政治運動をもたらした。同様に民族としての政治的な団結はスコットランドやウェールズではイングランドに対する経済的な従属を拒否として表れており、イギリス国内における地域的な経済格差を是正するよう政治的な主張が展開される。このような諸事例を背景としながら、政治学ではポスト近代の現象として民族政治を位置づけて分析されることがある。ゲルナーは近代における文化的な凝縮性に基づいたナショナリズムや産業社会はポスト近代の時代の推進力となっている可能性を指摘している。ポスト近代においては伝統的なアイデンティティを弱体化させ、より多様性が促進される。その原因となっているのが市場個人主義の普及や社会的な流動性の増大であり、近年ではグローバリゼーションによって国民という静態的な社会的アイデンティティーが弱化している事態である、と彼は考えている。民族意識の高まりはしばしば他の民族への対抗として表面化しうるものであり、アフリカやアジアの地域においては特に顕著に見られる場合がある。1960年代のナイジェリアでの紛争やスーダンでの内戦、スリランカでの内戦などが挙げられる。また1994年のルワンダでは民族的な対立が大量殺戮を引き起こす事例は国内政治において重大な武力衝突を引き起こすことを示している。
 
====社会階級====