「高等学校日本史B/テーマ史別/宗教史」の版間の差分

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政治的評価は少なくとも「高校日本史」にはふさわしくない。別の場でやっていただきたい。また、断代史的観点は宗教史としては不適当な場合がある(710年など)
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===徳川時代(1603年~1868年)===
 [[日本史 江戸時代|徳川時代]]には、[[w:徳川幕府|徳川幕府]]は皇子(みこ)らが出家・居住した寺院を朝廷の一員とみなして統制した。また寺院法度で仏教宗派ごとに、[[w:諸宗寺院法度|諸宗寺院法度]]で仏教僧全体を、[[w:諸社禰宜神主法度|諸社禰宜神主法度]]では神社・神職を、[[w:寺社奉行|寺社奉行]]の下で統制した。キリスト教に対しては、継続して禁教とし、絵踏を行い、[[w:寺請制度|寺請制度]](檀家制度)で仏教への転宗を強制した。キリスト教とともに日蓮宗[[w:不受不施派|不受不施派]]を禁じ、誰もが[[w:檀那寺|檀那寺]]をもつようにした。神道・修験道・陰陽道は仏教に準じて容認された。徳川時代初期には、過酷な年貢とキリスト教徒弾圧に対し島原の乱がおこったが、鎮圧され、さきの絵踏が進められた。また家康を祖霊として祀る日光東照宮など霊廟建築が流行し、神社建築も行われた。この[[日本史 江戸時代|徳川時代]]は、[[w:朱子学|朱子学]]が正統な学問として半ば国教とされた時代でもある
 
 徳川時代中後期は、寺社が縁日・開帳・突富を催して人を集め、善光寺等への寺社参詣が盛んだった。伊勢神宮への爆発的参詣の[[w:御蔭参り|御蔭参り]]が数百人規模でおこった。聖地・霊場の巡礼や、彼岸・盂蘭盆などの仏教的行事、庶民信仰の康申講が行われた。平田篤胤が日本古来の純粋な信仰を尊に仏教・儒教を排斥する復古神道を立て、各地の豪農・神職に浸透し、徳川時代末期には政治運動と結びついた。又、末期には天理教などの民間宗教(教派神道)が生まれていた。
 
===明治維新から終戦まで帝国時代(1868年~1945年)===
 [[w:徳川幕府崩壊後|徳川幕府]]が倒され、[[1868年w:大日本帝国|大日本帝国]]([[w:明治政府|明治政府]])が成立した1868年は、[[w:明治政府|明治政府]]が出した[[w:神仏分離令|神仏分離令]]により、古代からの神仏習合は禁止され、神道は「天皇の為の宗教」として改編され([[w:国家神道|国家神道]])、[[w:タリバン|タリバン]]や[[w:文化大革命|文化大革命]]と同様の[[w:廃仏毀釈|廃仏毀釈]]が行われた。また、キリスト教禁も継続し、隠れキリシタンは迫害を受けたが、欧米列強の抗議で黙認されるようになった。明治政府は当初、国家神道によって民衆を教化すべく、[[1872年]]に[[w:教部省|教部省]]を設けるなどの宗教政策に取り組んだが、十分な効果が挙げられず、[[1877年]]には廃止され、[[w:内務省 (日本)|内務省]]の下部組織である[[w:社寺局|社寺局]]にその業務を移管、以降は[[w:国家神道|国家神道]]に関する事項を除いては、国民の信教活動に対して原則として不干渉の態度をとるようになった。即ち、[[w:大日本帝国憲法|大日本帝国憲法]]第28条において「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と信教の自由を保障した。但し、国家神道について、政府は「国家神道は儀礼であって、信仰ではなく信教の自由を侵すものではない」との立場から、社寺局から[[w:宗教局|宗教局]]と分かれた[[w:神社局|神社局]]の管理の下、国費による神社の経営等が行われた。なお、一般の宗教政策は、管轄が文部省に移管した宗教局に委ねられたが、宗教政策自体が国政における地位を大きく下げていった。
 
 この[[日本史 戦前|帝国時代]]には、国家神道が国教とされ、「天皇の為」の宗教政策が布かれた。[[1872年]]に[[w:教部省|教部省]]を設けるなどの宗教政策に取り組んだが、十分な効果が挙げられず、1877年には廃止され、[[w:内務省 (日本)|内務省]]の下部組織である[[w:社寺局|社寺局]]にその業務を移管、以降は[[w:国家神道|国家神道]]に関する事項を除いては、国民の信教活動に対して原則として不干渉の態度をとるようになった。即ち、[[w:大日本帝国憲法|大日本帝国憲法]]第28条において「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と信教の自由を保障した。但し、国家神道について、政府は「国家神道は儀礼であって、信仰ではなく信教の自由を侵すものではない」との立場から、社寺局から[[w:宗教局|宗教局]]と分かれた[[w:神社局|神社局]]の管理の下、国費による神社の経営等が行われた。なお、一般の宗教政策は、管轄が文部省に移管した宗教局に委ねられたが、宗教政策自体が国政における地位を大きく下げていった。
 このような中、国家神道は、[[w:靖国神社|靖国神社]]、[[w:護国神社|護国神社]]による戦死者祭祀も司るようになった。戦時色が強まるつのと平行して、参拝等が奨励されるようになり、[[1940年]]、国民教化を担う神祇院が神社局を後継して設立された。
 
 [[w:帝国主義|帝国主義]]ような中時代とあって内地・[[w:外地|植民地]]・軍事占領地にも神社が建てられ、「天皇の為」の宗教政策が頒布された([[w:皇民化政策|皇民化政策]])。国家神道は、後に[[w:靖国神社|靖国神社]]、[[w:護国神社|護国神社]]による戦死者祭祀も司るようになった。戦時色が強まるつのと平行して、参拝等が奨励されるようになり、帝国時代末期の[[w:1940年|1940年]]には、国民教化を担う神祇院が神社局を後継して設立された。
 
===国民主権時代(1945年~現在)===
 1945年に太平洋戦争の敗によって帝国主義政策が破綻し、[[日本史 戦後|国民主権時代]]が到来すると、GHQによって軍国主義と天皇への強制崇拝の思想的基盤であった国家神道が解体撤廃され([[w:神道指令|神道指令]])、[[w:日本国憲法|日本国憲法]]に[[w:政教分離|政教分離]]が明記された。
 
==仏教==