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[[w:日蓮|日蓮]]は、仏の救済を来世に求める浄土教や、宗教的救済に価値を置かない禅宗に反発し、題目「南無妙法蓮華経」を唱える「唱題」の行を行えば「[[w:仏性|仏性]]」が顕現するという思想を説き、[[w:法華宗|法華宗]]([[w:日蓮宗|日蓮宗]])を成立させた。「仏性の顕現」の真の宗教的解釈は難しいが、一般には、題目を唱えることにより現世利益が得られるものと受け入れられたものである。
 
===足利室町時代(1333年~1467年)===
:(後醍醐天皇による建武政府成立から、応仁の乱勃発まで。)
 [[日本史 室町時代|足利室町時代]]は、禅宗の臨済宗が[[w:足利幕府|足利幕府]]の保護で栄え、足利義満の金閣が禅宗様を折衷し、官寺制度の[[w:五山の制|五山]]・[[w:十刹の制|十刹の制]]が作られ、中国の渡来僧らが水墨画などを伝えた。義政の銀閣も禅の精神に基づいた。一方で神道思想による日本書記研究がされ、吉田兼倶(かねとも)は反本地垂迹説により[[w:唯一神道|唯一神道]]を立てた。足利幕府が衰えると、五山の制に対するものとして、禅宗諸派が自由な布教を行った。日蓮宗が京都に進出し、他宗と争い、法華一揆を結び、天台宗延暦寺との対立(天文法華の乱)も行われた。なかでも、浄土真宗は[[w:蓮如|蓮如]]らの活動により勢力を得、各地で[[w:一向一揆|一向一揆]]と呼ばれる活動を起こし、戦国大名に対抗した。
 
===戦国時代(1467年~1603年)===
:(応仁の乱勃発から、徳川幕府成立まで。)
 [[日本史 戦国時代|戦国時代]]には、[[1549年]]、[[w:イエズス会|イエズス会]]宣教師[[w:フランシスコ・ザビエル|フランシスコ・ザビエル]]が鹿児島に到着し、大名の保護のもとキリスト教布教をした。宣教師らは教会堂などを建て、[[w:キリシタン大名|キリシタン大名]]が生まれた。一方で、織田信長は1570年以降に比叡山延暦寺を焼き討ちし、浄土真宗一向一揆を屈服させた。豊臣秀吉は当初キリスト教布教を認めたものの、大名の入信の許可制化、バテレン追放令発布をした。ただ貿易活動と一体であったキリスト教布教は続けられていった。
 
===江戸時代(1603年~1868年)===
 [[w:徳川幕府|江戸徳川幕府]]は、皇子(みこ)らが出家・居住した寺院を朝廷の一員とみなして統制した。また寺院法度で仏教宗派ごとに、[[w:諸宗寺院法度|諸宗寺院法度]]で仏教僧全体を、[[w:諸社禰宜神主法度|諸社禰宜神主法度]]では神社・神職を、[[w:寺社奉行|寺社奉行]]の下で統制した。キリスト教に対しては、継続して禁教とし、絵踏を行い、[[w:寺請制度|寺請制度]](檀家制度)で仏教への転宗を強制した。キリスト教とともに日蓮宗[[w:不受不施派|不受不施派]]を禁じ、誰もが[[w:檀那寺|檀那寺]]をもつようにした。神道・修験道・陰陽道は仏教に準じて容認された。徳川江戸時代初期には、過酷な年貢とキリスト教徒弾圧に対し島原の乱がおこったが、鎮圧され、さきの絵踏が進められた。また家康を祖霊として祀る日光東照宮など霊廟建築が流行し、神社建築も行われた。
 
 江戸時代中後期は、寺社が縁日・開帳・突富を催して人を集め、善光寺等への寺社参詣が盛んだった。伊勢神宮への爆発的参詣の[[w:御蔭参り|御蔭参り]]が数百人規模でおこった。聖地・霊場の巡礼や、彼岸・盂蘭盆などの仏教的行事、庶民信仰の康申講が行われた。平田篤胤が日本古来の純粋な信仰を尊に仏教・儒教を排斥する復古神道を立て、各地の豪農・神職に浸透し、江戸時代末期には政治運動と結びついた。又、末期には天理教などの民間宗教(教派神道)が生まれていた。
 
===明治時代~昭和時代(1868年~1945年)===
 [[w:徳川幕府|江戸徳川幕府]]が倒され、[[w:明治政府|明治政府]]が成立した1868年には、[[w:神仏分離令|神仏分離令]]により、古代からの神仏習合は禁止され、神道は「天皇の為の宗教」として改編された。その結果、[[w:廃仏毀釈|廃仏毀釈]]が行われた。また、キリスト教禁止も継続し、隠れキリシタンは迫害を受けたが、欧米列強の抗議で黙認されるようになった。
 
 この[[日本史 戦前|戦前]]には、国家神道が国教とされ、「天皇の為」の宗教政策が布かれた。[[1872年]]に[[w:教部省|教部省]]を設けるなどの宗教政策に取り組んだが、十分な効果が挙げられず、1877年には廃止され、[[w:内務省 (日本)|内務省]]の下部組織である[[w:社寺局|社寺局]]にその業務を移管、以降は[[w:国家神道|国家神道]]に関する事項を除いては、国民の信教活動に対して原則として不干渉の態度をとるようになった。即ち、[[w:大日本帝国憲法|大日本帝国憲法]]第28条において「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と信教の自由を保障した。ただし、国家神道について、政府は「国家神道は儀礼であって、信仰ではなく信教の自由を侵すものではない」との立場から、社寺局から[[w:宗教局|宗教局]]と分かれた[[w:神社局|神社局]]の管理の下、国費による神社の経営等が行われた。なお、一般の宗教政策は、管轄が文部省に移管した宗教局に委ねられたが、宗教政策自体が国政における地位を大きく下げていった。
 
 [[w:帝国主義|帝国主義]]の時代とあって、内地・[[w:外地|植民地]]・軍事占領地にも神社が建てられ、「天皇の為」の宗教政策が頒布された([[w:皇民化政策|皇民化政策]])。国家神道は、後に[[w:靖国神社|靖国神社]]、[[w:護国神社|護国神社]]による戦死者祭祀も司るようになった。戦時色が強まるつのと平行して、参拝等が奨励されるようになり、帝国時代末期太平洋戦争勃発直前の[[w:1940年|1940年]]には、国民教化を担う神祇院が神社局を後継して設立された。
 
===昭和時代半~(1945(1945年~現在)===
 1945年に太平洋戦争の敗北によって帝国主義政策が破綻し、[[日本史 戦後|国民主権時代]]が到来すると、GHQによって軍国主義と天皇への強制崇拝の思想的基盤であった国家神道が撤廃され([[w:神道指令|神道指令]])。[[日本史 戦後|戦後]]になると、[[w:日本国憲法|日本国憲法]]に[[w:政教分離|政教分離]]が明記され、信教の自由が保障された。
 
==仏教==