「ガリア戦記/参照画像一覧」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Linguae (トーク | 投稿記録)
Linguae (トーク | 投稿記録)
191 行
画像:Chartres_1.jpg|[[w:カルヌテス族|カルヌテス族]](Carnutes)の名を残す現在の[[w:シャルトル|シャルトル]](Chartres)の象徴である[[w:シャルトル大聖堂|シャルトル大聖堂]]([[w:世界遺産|世界遺産]])。[[ガリア戦記 第6巻#13節|第6巻13節]]⑩項で既述のように、カルヌテス族の土地はガリアの中心・聖地と見なされていた。ガリアがキリスト教化されると、[[w:司教|司教座]]が置かれて、宗教的中心地となった。
画像:Cathédrale_Sainte-Croix_d'Orléans_2008_PD_16.JPG|ケナブム(Cenabum)すなわち現在の[[w:オルレアン|オルレアン]]の聖十字架大聖堂。ここもカルヌテス族の[[w:オッピドゥム|城市]]で、ガリアの[[w:ドルイド|ドルイド]]たちが集まる聖地だったという。ローマの[[w:ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス|アウレリアヌス帝]](Aurelianus)によって再建されたのでアウレリアヌスの都市(アウレリアヌム [[w:la:Aurelianum|Aurelianum]])と改称され、オルレアン(Orléans)と転訛した。キリスト教化によってここにも[[w:司教|司教座]]が置かれて、布教の中心地になった。
画像:Vercingétorix_par_Millet.jpg|[[w:ウェルキンゲトリクス|ウェルキンゲトリクス]]の立像(フランスのアリーズ=サント=レーヌ <small>[[w:fr:Alise-Sainte-Reine|Alise-Sainte-Reine]]</small>)。<br>近代[[w:ナショナリズム|ナショナリズム]]の高揚とともに[[w:フランス|フランス]]国民が自らを古代[[w:ガリア人|ガリア人]]の末裔と見なすようになると([[w:ガリア起源説|ガリア起源説]])、ガリア諸部族を率いて[[w:古代ローマ|古代ローマ]]と戦った彼は「'''フランス最初の英雄'''」として祀り上げられた。[[w:フランス第二帝政|第二帝政]]期に皇帝[[w:ナポレオン3世|ナポレオン3世]]の命により[[w:アレシアの戦い|アレスィア古戦場]]の発掘調査が実施され、[[w:1865年|1865年]]にはその地に彫刻家エメ・ミレ([[w:fr:Aimé Millet|Aimé Millet]])による高さ7メートルの銅像が建立された。<br>([[w:fr:Vercingétorix_(statue_d'Aimé_Millet)|fr:La statue de Vercingétorix]])
画像:Statue-vercingetorix-jaude-clermont.jpg|[[w:ウェルキンゲトリクス|ウェルキンゲトリクス]]の騎馬像([[w:fr:Statue équestre de Vercingétorix (Frédéric Auguste Bartholdi)|fr]])。彼の出身地ゲルゴウィアの近く、[[w:クレルモン=フェラン|クレルモン=フェラン市]]中央広場に建つ。[[w:1903年|1903年]]に、[[w:自由の女神像 (ニューヨーク)|自由の女神像]]の作者として著名な彫刻家[[w:フレデリク・バルトルディ|フレデリク・オーギュスト・バルトルディ]]によって建立された。[[w:フランス語|フランス語]]で「我は皆の自由のために武器を取った」« J’ai pris les armes pour la liberté de tous » と刻まれている。
画像:Maps_of_Eduens_people-fr.svg|[[w:ハエドゥイ族|ハエドゥイ族]]を軸とするガリアの合従連衡(<small>フランス語表記</small>)。赤い部分がハエドゥイ族(Eduens)、桃色・茶色の部分が同盟部族、灰色の部分が敵対する[[w:アルウェルニ族|アルウェルニ族]](Arvernes)とセクアニ族(Sequanes)の領域である。茶色のビトゥリゲス族(Bituriges)と赤いハエドゥイ族(Eduens)の境界に沿ってリゲル川([[w:ロワール川|ロワール川]])が流れていることが見て取れる。川の西岸はビトゥリゲス族とアルウェルニ族の勢力圏になっている。