「中国史」の版間の差分

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モンゴル帝国は各地に王族や漢人有力者を分封した。モンゴル帝国の4代目の([[w:ハーン|ハーン]])だったモンケが死ぬと、その後継を巡ってアリク・ブケと[[w:クビライ|クビライ]]が争った。抗争は結果的にクビライ優位に推移したが、これを機にユーラシアに広がった各ハン国の緩やかな分立は顕在化した。クビライは正当な手続きを経ないまま5代ハーンに即位したが、当時彼が直接支配できたのはモンゴル、華北、満州、中央アジアの東半分までで、それより西には統制力は及ばなかった。もっとも、こうして分裂が始まったといっても、帝国としての緩やかな連合は保たれ、ユーラシアには平和が訪れていた。[[w:1271年|1271年]]にクビライは[[w:元 (王朝)|元]]を[[w:国号|国号]]として中国支配をすすめた。
 
モンゴル帝国(元)は未だ征服していなかった南宋への牽制のためにも日本に対して通交を求めたが、書面に脅迫的な言辞があるとして、武家政権だった時の日本政府(鎌倉幕府)は断った。このため二度に渡り日本に侵攻したが、成功しなかった([[w:元寇|元寇]])。元は三度目の日本侵攻を計画したが、実現には至らなかった。
 
中国南部を支配していた南宋を1279年に元が滅ぼしたのはすでに見たとおりである。