「中国史」の版間の差分

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元の中国支配は、伝統的な中国王朝とは大きく異なっていた。元は中国の伝統的な統治機構を採用せず、遊牧民の政治の仕組みを中国に移入したからである。元の支配階級の人々は、すでに西方の優れた文化に触れていたため、中国文化を無批判に取り入れることはなかった。それは政治においても同様だったのである。それに伴い、伝統的な統治機構を担ってきた、儒教的な教養を身に付けた士大夫層は冷遇され、政権から遠ざけられた。そのため、彼らは曲や小説などの娯楽性の強い文学作品の執筆に携わった。この時代の曲は[[w:元曲|元曲]]と呼ばれ、中国文学史上最高のものとされる。また、モンゴル帝国がユーラシア大陸を広く支配したために、この時期は東西交易が前代に増して盛んになった。
 
クビライが死ぬと、幼いハーンや短命なハーンが相次ぎ、皇位継承戦争が頻発した。また宮廷費用14世紀の初頭から気候は寒冷化し、洪水や疫病などを浪費してお大規模な天災が相次いだ。華北では大掛か、そのな治水工事が行われが政府の出費は嵩む一方で、塩の専売策や紙幣の濫発で収入を増やそうとしは強化された。しかし、これは経済を混乱させるだけであった。そして、庶民の生活は困窮した。こうした中、各地で反乱が発生した。中でも最大規模のものは[[w:1351年|1351年]]に勃発した[[w:紅巾の乱|紅巾の乱]]であった。紅巾党の中から頭角をあらわした[[w:朱元璋|朱元璋]]は、[[w:1368年|1368年]]に[[w:南京|南京]]で[[w:明|明]]王朝を樹立して皇帝に即位した。同年、朱元璋は元の都の[[w:大都|大都]]を陥落させ、元の政府はモンゴル高原へと撤退した。撤退後の元のことを[[w:北元|北元]]といい、明と北元はしばしば争った。明王朝は[[w:1388年|1388年]]に北元は滅んだと称しているが、実質的にはその後も両者の争いは続いた。
 
===[[明]]===