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朱元璋の死後、孫の[[w:建文帝|建文帝]]が即位したが、洪武帝の四男である[[w:永楽帝|朱棣]]が反乱([[w:靖難の変|靖難の変]])を起こし、永楽帝として皇帝になった。永楽帝は、モンゴルを攻撃するなど、積極的に対外進出を進めた。また、海禁の例外として、国営貿易は行われ、[[w:鄭和|鄭和]]を南洋に派遣して、諸国に[[w:朝貢|朝貢]]を求めた。
永楽帝の死後、こうした例外が無くなったことで[[w:海禁政策|海禁政策]]は完全化し、貿易
一方で、絶対的な皇帝独裁制だった為に、政治の質は皇帝の人格・能力によって左右された。そうした体制の常として、側近が力を持ち、その大多数が政体上、宦官が占めた明では、彼らが国政を壟断し、腐敗し、怨嗟の声は朝野に満ちた。
また、皇帝による贅沢や多額の軍事費用の負担は民衆に重税となって圧し掛かってきた。これに対し、各地で反乱がおき、その中で頭角をあらわした[[w:李自成|李自成]]が[[w:1644年|1644年]]に明を滅ぼした。▼
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===[[清]]===
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