「中学校社会 歴史/世界恐慌と各国の対応」の版間の差分

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*[[中学校社会 歴史]] > 昭和時代
 
昭和時代(しょうわ じだい)とは、昭和天皇(天皇裕仁、読み「ひろひと」)の治世を指す語。
 
==概要==
1927年から1989年までに当たるが、[[第二次世界大戦]]終結(1945年9月2日)もしくは[[日本国憲法]]施行(1947年5月3日)を境に、国の形が全く違っている。第二次世界大戦終結前は天皇主権の「'''大日本帝国'''」の時代であり、第二次世界大戦後は国民主権の「'''日本国'''」の時代である。
 
特徴として、大日本帝国の昭和年間(1927年~1945年)は、[[中学校社会 歴史 帝国時代|帝国時代]]の末期であり、'''ファシズム時代'''である。一方で、日本国の昭和年間(1945年~1989年)は、[[中学校社会 歴史 民主国家時代|民主国家時代]]の一部であり、'''[[冷戦]]時代'''(れいせん)時代である。
 
大日本帝国の昭和年間、日本国の昭和年間の共通要素としては、「'''[[核兵器]]の時代'''」である点が挙げられる。大日本帝国の昭和年間は原爆投下が起こった「'''核戦争の時代'''」であり、日本国の昭和年間は冷戦による「'''核平和の時代'''」である。しかし、核開発自体は1930年代から極秘に始まっていたが、本格的に核兵器時代が始まった時は、1945年8月の原爆投下である。尚、「核平和の時代」の終わりは1989年で、昭和天皇の死と共に[[東欧民主化革命]]が起きた年である。
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1929年にアメリカでは株価が大暴落しこれが世界に飛び火(世界恐慌)。各国は不況を乗り切ろうとし、アメリカはフランクリン・ローズヴェルトのもとでニューディール(新規巻きなおし)政策を取り公共事業を活性化させるもあまり上手くはいかず不況は尾を引いていた。英仏はその膨大な植民地に物を言わせてブロック経済政策をとり第三国との貿易を制限した。ソ連は5カ年計画を行い計画経済を成立させ一見恐慌の影響を受けていないような状態だったがウクライナなどでは多数の餓死者を出すなどの惨事もあった。
 
この世界恐慌の影響を最も受けていたドイツでは、社会不安からアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が台頭し、1933年に政権を獲得した。ナチ政権はアウトバーンの建設などでドイツ経済を復活させたが国民の不満のはけ口を人種差別に求めユダヤ人などの「劣等民族」とされた人種は迫害を受けたり虐殺されたりした。このヒトラー率いるナチ政権のドイツを、現在では専らナチス・ドイツという。イタリア王国も、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の子分であるベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党がローマに進軍し独裁体制を固めた。大日本帝国も、昭和天皇の政権掌握と共に治安維持法の時代に突入し、民主主義思想・共和制思想・反戦思想は特高警察によって烈しく弾圧された。これらのような独裁政治や全体主義を、「ファシズム」という。
 
当時の軍部は社会不安から国民にも支持される形で1931年に満州事変(まんしゅうじへん)<ref>当時満州では排日運動が激しく権益防衛のため軍部が独断で引き起こした</ref>を誘発し満州国を建国。この国は事実上日本の傀儡政権であったが日本影響下では経済発展を遂げ日本の恐慌脱出にも貢献した。
 
1932年の5月に海軍青年将校犬養毅らを襲撃するクーデター未遂事件が発生(515した。( 五・一五事件(ごいちご じけん) )。1936年の2月にも陸軍青年将校首相大臣を襲撃する事件が起こり(226( ニ・二六事件(にいにいろくじけん) )徐々に軍部の内政干渉が起こり始めていた。しかし相次ぐ政党政治への不信感から国民は軍部を支持していた。
 
1937年に盧溝橋事件(ろこうきょう じけん)が何者かにより発生し日中戦争(にっちゅうせんそう)が起こる。大日本帝国政府は不拡大方針を貫こうとしたが、国内の圧倒的な軍部支持の世論に負け戦線が拡大すると追認していった。日本は中国の都市の大部分を占領したが<ref>日本軍が中国の首都南京(ナンキン)を占領した際に市民に多数の死者を出した。( 南京事件(ナンキンじけん) )なおこの事件については資料の上で疑問点もあり今日でも論争が続いている。</ref>中国はゲリラ戦などを駆使し激しく抵抗。
 
以前から日本を敵視していた米英からは反発を買い、中国を援助する政策を取リ戦争を長期化させる。
 
戦争が長期化するにつれ国民生活も貧窮し始め生活必需品の配給制、物価統制が行われるようになった。また挙国一致の一環として1938年に国家総動員法(こっかそうどういんほう)が成立し物価統制が容易に行われた。1940年にはドイツやソ連の一党独裁を模倣するために全政党を解散させて大政翼賛会(たいせいよくさんかい)を結成した。
 
1939年に以前から周辺諸国を併合し領土獲得を進めてきたナチス・ドイツとソ連は独ソ不可侵条約締結後にポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まった。当初ドイツ軍は勝利を収め1940年にはフランスを征服した。その快進撃を目の当たりにした日本は急速にドイツに接近し1940年9月に日独伊三国軍事同盟(にちどくい さんごくどうめい)を締結した。これはヨーロッパのドイツと手を組み、イギリスやソ連を牽制する目的だったが逆に米英との対立関係を深めた。
 
日本は1941年にソ連と日ソ中立条約(にっそちゅうりつじょうやく)を締結し日独伊三国同盟にソ連を加えようとしたがドイツがソ連に侵攻し独ソ戦が始まりその構想は破綻した。
 
日本は日中戦争の長期戦打開のために1941年フランス政府との合意の上仏領インドシナ(現:ベトナム)に進駐するが逆に米英から石油禁輸などの強硬な経済制裁を受け日米間の関係悪化は決定的になっていった。このときに形成された対日経済包囲網を「ABCD包囲陣」ABCD包囲網(エービーシーディーほういじん)という。
 
その最中日本はアメリカと交渉を行い石油禁輸解除を求めるも逆に「ハル・ノート」と呼ばれる強行案<ref>満州を含む中国全土からの即時撤退などを要求。</ref>を提出され対米開戦を決意。
 
1941年に太平洋戦争(読み:たいへいようせんそう、 大東亜戦争(だいとうあせんそう) とも言う。)<ref>戦後「大東亜戦争」の使用が禁止されたため「太平洋戦争」の名称が一般的になった。</ref>が勃発する。日本は戦争目的を自存自衛とアジアを欧米の植民地から解放し「大東亜共栄圏」(だいとうあ きょうえいけん)を建設することであると宣言した。<ref>しかし日本軍政下のもとで神社参拝、日本語教育の強制が行われたので現地人から反感を買い抗日運動が頻発した。</ref>当初は勝ち戦にみえたが翌年1942年のミッドウェー海戦で形勢が逆転。以降は敗走の連続で国民は物資の不足に悩まされる。南洋諸島の多くでは物資の不足に苦しみ玉砕の戦場となっていった。
 
1943年には学徒出陣を行い大学生も戦争に従事させられ学徒出陣(がくになっしゅつじん)が行われた。また同年イタリアが降伏。1944年にはサイパン島が陥落し本格的な本土空襲が始まり国民の多くが犠牲になった。空襲が本格的に始まると惨禍を避けるため児童は地方に疎開(そかい)した( 学童疎開(がくどうそかい) )。また学生も工場での兵器生産などに従事した。(学徒動員)その他婦人会なども挙国一致体制に貢献した。
 
1945年になると、ドイツの戦況が不利なことより、4月30日にはヒトラーが自殺し、5月8日にドイツが降伏。東京・大阪などの主要都市が空襲で焼け野原となった。そして、7月26日にはポツダム宣言(ポツダムせんげん)が公布されたが、大日本帝国政府は当初これを無視した。この結果、8月6日には広島に、8月9日には長崎に核兵器(原子爆弾)が投下され、ソ連軍が日ソ中立条約を破り満州に侵攻した。原爆2発とソ連軍侵攻を受けて、8月14日にポツダム宣言(日本への降伏要請宣言)を受諾し、9月2日にポツダム宣言に調印して降伏した。そのときには国民のほとんどが苦しい生活であった。
 
==日本国年間==
===概観===
敗戦後の日本は、連合国による占領下に置かれ、政治体制は変わり絶対主義・帝国主義から民主主義・平和主義に変わった。日本国民は国際社会に復帰することとなった。
 
戦後から約30年ほど経つと、日本の経済力は世界第2位の規模(GNPという指標による)となったが、一方で成長に限界が生じ、安定的な経済成長の下、成長に伴って生じた問題点の解決が求められ、現在にいたっている。
 
===終戦から国際社会への復帰まで===