「高等学校古文/歴史書」の版間の差分

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もう一つの理由としては、王朝の統治においてその正統性を証する、即ち、前代の王朝が、天下を治めるのに適当でないと、天が判じて王朝を変えた([[w:放伐|放伐]])ので、現在の王朝は正統であるとの思想([[w:易姓革命|易姓革命]])が、史書の作成及びその前提としての研究を盛んにしたものと考えられる。
 
ただし、歴史を記述することの理想は高いものが形成されていたことは、以下の記事が物語る。
:[[w:春秋左氏伝|春秋左氏伝]]襄公二十五年
::齊太史書曰「崔杼弒莊公」、崔杼殺之。其弟復書、崔杼復殺之。少弟復書、崔杼乃捨之。
:::(斉の宰相である[[w:崔杼|崔杼]]が、君主である荘公を不行跡を原因とし殺して、弟の景公を即位させたのを受け)斉の太史(歴史官)が史書に、「崔杼が莊公を弒逆した」と記載した。崔杼は、(書き直させようとしたが、聞き入れなかったので)この太史を殺した。その弟が、太史となり、やはり同様に記録した。崔杼は、その弟も殺した。末の弟が、太史となり、やはり同様に記録した。崔杼は、あきらめそのまま記録させた。
 
===代表的歴史書===
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====正史====
上記の理由により、各王朝は自己の王朝を正当化するために国家事業として歴史書を編纂しており、それを正史と呼ぶ。清代において、特に正統とされる24の史書を取り上げ「'''二十四史'''」と呼ぶ。但し、そのうち、[[w:司馬遷|司馬遷]]『[[/史記|史記]]』、[[w:班固|班固]]『[[w:漢書|漢書]]』、[[w:陳寿|陳寿]]『[[w:三国志|三国志]]』、[[w:范曄|范曄]]『[[w:後漢書|後漢書]]』、[[w:沈約|沈約]]『[[w:宋書|宋書]]』は王朝の事業ではなく、私撰の体裁を取っている。ただし、これらについても司馬遷が[[w:太史公|太史公]]という地位にあり、王宮内の歴史文書に容易に触れうる地位にいたこと等から、在野の歴史家の著したものと言うよりは、時の皇帝の承認を得て撰じたものであると理解する方が自然であろう。
 
正史は、史記以来の伝統により、統治者である皇帝(又は王)の伝記である[[w:本紀|本紀]]とそれに仕える人々などの伝記である伝・[[w:列伝|列伝]]により構成する[[w:紀伝体|紀伝体]]という書式によっている。