「中学校社会 歴史/鎌倉時代」の版間の差分

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壇ノ浦の戦いが1185年だということを記述。
小学校社会 6学年 上巻 2014年6月26日 (木) 15:33‎‎ から、鎌倉時代について引用。とりあえず、頼朝の頃の時代を、部分的に引用。
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==概要==
鎌倉時代は1192年~1333年の約140年間を指す<ref>鎌倉時代(鎌倉幕府)の成立は1185年という有力な学説があるが、中学校の歴史教科書では一般に1192年説が採用されているため、こちらを採用している。</ref>。源頼朝(みなもとの よりとも)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となって鎌倉幕府を開き、源氏(げんじ)が3代で滅亡した後は北条(ほうじょう)氏が執権(しっけん)となって政治を動かした。途中、2度の元寇(げんこう)があったがこれを退けた。しかし、幕府に不満を抱いた御家人(ごけにん)を集めた後醍醐天皇(ごだいごてんのう)によって幕府は滅ぼされた。また、文化においては、簡素で力強い作品や大衆向けの仏教の宗派が現れた。この鎌倉時代から、政治の権力が朝廷から幕府へと移っていき、武家政治の時代になっていく
 
== 鎌倉幕府の成立としくみ ==
 
=== 源平の内乱 ===
[[ファイル:Minamoto no Yoritomo.jpg|250px|thumb|源頼朝(みなもとの よりとも)と伝えられる人物画。]]
平安時代末期、政権をにぎっていた平氏(へいし)に対する不満が高まった。その中で、1180年に以仁王(もちひとおう)が挙兵し<ref>以仁王自身は平氏との戦いで敗死した。</ref>、諸国の武士に「平氏を討伐せよ」との命令を出した。同年、平治の乱(へいじの らん)に敗れて伊豆(いず)に流されていた'''源頼朝'''(みなもとの よりとも)、ついで木曽(きそ)の'''源義仲'''(みなもとのよしなか、'''木曽義仲''')らがこの命令に従って挙兵した。源頼朝は石橋山の戦い(いしばしやまの たたかい)で大敗したが、その後、有力な武士を味方に付け、鎌倉を中心に関東の支配を固めていった<ref>このころ、源頼朝のもとに、奥州藤原氏(おうしゅう ふじわらし)のもとにいた弟の源義経(みなもとの よしつね)が合流している。</ref>頼朝は、自らは鎌倉にとどまり、かわりに弟の'''源義経'''(みなもとの よしつね)の兵をつかって、平氏を西へと追いつめていくことになる。そのころ、源義仲は平氏を京都から追い出すことに成功したが、朝廷の後白河上皇(ごしらかわじょうこう)側との対立を生じていた。後に、朝廷は源義仲追討の命令を出し、義仲は源頼朝の命を受けた'''源義経'''(みなもとの よしつね)らに滅ぼされた。一方、平氏も力を盛り返し、京都に攻め上ろうとする勢いを見せ始めた。しかし、源義経らが平氏を'''一の谷の戦い'''(いちのたにの たたかい)、および'''屋島の戦い'''(やしまのたたかい)で破り、1185年に'''壇ノ浦の戦い'''(だんのうらの たたかい)で平氏を滅亡させることに成功した。
 
* 伊豆(いず) - 現在の静岡県
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※ 脚注
<references />
== 鎌倉幕府の成立 ==
義経(よしつね)は頼朝(よりとも)と対立する。頼朝(よりとも)らによって、義経(よしつね)らは滅ぼされる。
義経らは東北地方である奥州にいる奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)をたよって東北に逃げていたので、かくまっていた奥州藤原氏も頼朝により滅ぼされる。
 
 
いっぽう、平氏の滅亡後、頼朝(よりとも)が朝廷に要求したことより、新しい制度として国ごとに'''守護'''(しゅご)が一人ずつ置かれ、荘園や公領(こうりょう)には、'''地頭'''(じとう) が置かれた。守護の仕事は、その国の御家人の統制や謀反の取り締まりなどの、軍事・警察の管理者である。地頭の仕事は、荘園および公領の管理や、税である年貢(ねんぐ)の取り立てである。
 
そして頼朝は1192年に、朝廷から'''征夷大将軍'''(せいい たいしょうぐん) に任命される。
 
頼朝は鎌倉に(今でいう神奈川県の鎌倉市のあたり)、幕府(ばくふ)という武家政治の拠点を開いた。この鎌倉にある幕府を鎌倉幕府(かまくら ばくふ)と言い、鎌倉に幕府があった時代(1192年~1333年の約140年間)を鎌倉時代(かまくらじだい) と言う。
 
「征夷大将軍」という言葉の意味は、頼朝の時代からは武士たちの中での最高権力者というような意味になっていく。「征夷大将軍」の元々の意味は、平安時代の坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)のように東北地方の蝦夷(えみし)を征服するための将軍という意味だった。
 
== 鎌倉幕府のしくみ ==
=== 御恩と奉公 ===
将軍の家来の武士のことを <big>御家人</big>(ごけにん) という。将軍は、御家人たちの土地の権利を保証する政策をとるかわりに( <big>御恩</big>(ごおん) )、御家人たちは将軍のために警備をしたり戦争の時には戦う( <big>奉公</big>(ほうこう) )という関係であった。
 
頼朝は、御家人を守護や地頭の仕事につけた。
 
<big>御恩</big>(ごおん)とは、将軍が御家人の土地の権利を認めて保証したり、手柄のあった御家人には新しく領地を与えることである。
 
<big>奉公</big>(ほうこう)とは、将軍や幕府のために仕事をすることで、具体的には、戦争の時には将軍のために戦うことである。<big>「いざ鎌倉」</big>(いざ かまくら)と言って、御家人は戦いが起きれば、すぐに鎌倉へと行って将軍に指示を聞き、将軍のために戦うべき、とされていた。「一所懸命」(いっしょけんめい)という言葉があるが、この言葉は、御家人たちが自分たちの領地を守るために命がけで戦う様子から出来た言葉である。
 
この主従関係は土地を仲立ち(なかだち)としている。このように土地を仲立ちとした主従関係を <big>封建制</big>(ほうけんせい) あるいは<big>封建制度</big>(ほうけんせいど)と言う。
 
==鎌倉時代の文化==
鎌倉時代には、文化の担い手は主として公家(くげ)や僧であったが、やがて、かざり気のない力強さを好む武士の気風が文化のうえにもあらわれた。これを'''鎌倉文化'''(かまくらぶんか)という