「中学校社会 歴史/鎌倉時代」の版間の差分

小学校社会 6学年 上巻 2014年6月26日 (木) 15:33‎‎ から、とりあえず鎌倉時代の制度と文化を引用。若干、加筆。
(小学校社会 6学年 上巻 2014年6月26日 (木) 15:33‎‎ から、鎌倉時代について引用。とりあえず、頼朝の頃の時代を、部分的に引用。)
(小学校社会 6学年 上巻 2014年6月26日 (木) 15:33‎‎ から、とりあえず鎌倉時代の制度と文化を引用。若干、加筆。)
 
この主従関係は土地を仲立ち(なかだち)としている。このように土地を仲立ちとした主従関係を <big>封建制</big>(ほうけんせい) あるいは<big>封建制度</big>(ほうけんせいど)と言う。
 
=== 執権政治 ===
頼朝の死後は、頼朝の子の頼家(よりいえ)が次の将軍になり、さらに次の将軍位は頼朝の子の実朝(さねとも)がついたが、政治の実権は、頼朝の妻は<big>北条政子</big>(ほうじょう まさこ)らの一族の北条氏にあった。その政子の父である<big>北条時政</big>(ほうじょう ときまさ)が<big>執権</big>(しっけん)という役職につき、北条氏らが幕府の実権をにぎった。
また、幕府の問題を決めるときには、会議のため、有力な御家人の中から選んだ評定衆(ひょうじょうしゅう)を集めて、会議をした。北条氏のように執権として政治の実権をにぎる政治のやりかたを <big>執権政治</big>(しっけん せいじ) という。
3代目将軍の実朝は、1219年に頼家の子である公暁(くぎょう)によって実朝は殺される。こうして源氏の直系の将軍は3代で絶える。北条氏は、京都の貴族を形式的な将軍にむかえて、北条氏が政治の実権をにぎった。
 
=== 承久の乱 ===
1221年( 承久(じょうきゅう)3年 )、京都の朝廷で院政を行っていた <big>後鳥羽上皇</big>(ごとばじょうこう) は政治の実権を朝廷に取り戻そうとして、北条氏を倒す命令を出し、兵を挙げた。だが、北条氏の側が上皇側の軍を破る。
後鳥羽上皇は島根県の隠岐(おき)に島流しにされ、追放される。この争乱を<big>承久の乱</big>(じょうきゅう の らん) という。
 
幕府は朝廷や西国を監視するため、京都に <big>六波羅探題</big>(ろくはらたんだい) を置いた。また、上皇側に味方した勢力の土地は取り上げ、上皇側の土地に新たに地頭を任命した。こうして西国でも幕府の支配は強まっていった。
 
*鎌倉幕府の仕組み
<div style="font-size:120%;">
<pre>
        (中央) 
将軍━━執権━━┳━━┳━侍所
        ┃  ┣━政所
        ┃  ┗━問注所
        ┃
        ┃
        ┃
   (地方) ┗━━┳━守護
           ┣━地頭
           ┗━六波羅探題
</pre>
</div>
=== 御成敗式目 ===
承久の乱 のあとの1232年( 貞永(じょうえい)元年 )に、執権の北条泰時(ほうじょう やすとき)らにより、武家社会の慣習(かんしゅう)をもとに新たな法律をつくり、<big>御成敗式目</big>(ごせいばい しきもく) という法律をつくり、御家人の権利や義務が定められ、この式目が政治や裁判の よりどころ になった。これは律令(りつりょう)とは、別の法律である。御成敗式目のことを貞永式目(じょうえい しきもく)ともいう。
 
<div style="border:1px solid #000000;">
 '''御成敗式目'''(抜粋)
:'''第3条'''
::守護の仕事は、京都の警備や、謀叛や殺人を取り締まることで、それ以外の仕事をしてはいけない。
 
:'''第5条'''
::地頭は、荘園の年貢を差し押さえては、いけない。
 
:'''第8条'''
::20年以上つづけて、その土地を支配していれば、その者に、その土地の所有を認める。
</div>
 
その他、律令では ゆるされていないが、女性が養子をむかえることを認める。女性が養子に所領をゆずることを認められた。鎌倉時代は女の地位が、けっこう高かった。女でも土地の相続(そうぞく)ができ、また女でも地頭になれた。
 
== 人々の暮らし ==
=== 武士の暮らし ===
[[Image:Yabusame 02.jpg|thumb|left|180px|やぶさめ]]
[[Image:Inu ou mono00.jpg|thumb|right|280px|犬追物]]
[[Image:Kyujutsu07.jpg|thumb|right|280px|かさがけ]]
 
武士は、日ごろから武芸(ぶげい)に、はげんでいた。やぶさめ(流鏑馬)、かさがけ(笠懸)・犬追物(いぬおうもの)などの武芸に、はげんでいた。3つとも、馬に乗り、弓矢で的をいるものである。
:流鏑馬(やぶさめ)では、馬にのって走りながら、いくつもある板の的をつぎつぎに射る。
:かさがけでは、馬に乗りながら的をいる。
:犬追物では、犬などの動く的を射る。
この3つの武芸を 騎射三物(きしゃみつもの) という。
犬追物では、やわらかい特殊な矢を使い、犬を殺さないようにしていた。
 
=== 民衆の暮らし ===
鎌倉時代の農業では鉄を用いた農具が普及し、そのため農業が発展した。
 
鎌倉時代には稲(いね)と麦との'''二毛作'''(にもうさく)が、近畿地方や西日本を中心に行われるようになった。秋に米を収穫し裏作として麦をつくり、春に麦を収穫する。
 
また、桑、うるし、茶、こうぞ(紙の原料)、ごま、大根、豆、ねぎ などの栽培も、さかんになった。
 
牛や馬を用いて、牛や馬に鋤(スキ)をひかせて田を耕す方法も行われるようになった。また、草を焼いた灰や木を焼いた灰( これらを草木灰(そうもくばい)という )や糞尿(ふんにょう)の肥料(ひりょう)も使われた。
 
商業や工業も発展していった。
 
手工業では、鉄製の農具や武具などを作る鍛冶(かじ)職人や、大工、ほかにも染め物をする職人など、いろいろな手工業の職人があらわれるようになった。衣料品などの手工業者もあらわれた。
 
農工業の発達もあって商業も発達した。定期的に市場(いちば)をひらく'''定期市'''(ていきいち)が、寺社などの近くで、毎月3回ほど決まった日に市が開かれはじめるようになった。この毎月3回の定期市を 三斎市(さんさいいち) という。
 
商業には貨幣が必要なので、中国大陸から宋銭(そうせん)が多く、日本に輸入された。また、貨幣の流通とともに、銭を貸す高利貸し(こうりがし)もあらわれた。
 
==鎌倉時代の文化==
ファイル:Dogen.jpg|道元(どうげん)
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=== 新しい文化 ===
武士の支配する社会になったので、平安のころの貴族文化とは、ちがった文化が出てきた。
文芸では、平氏の繁栄(はんえい)から滅亡(めつぼう)までを書いた<big>『平家物語』</big>(へいけ ものがたり)のように、軍記物が人々の関心をあつめた。
 
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:'''平家物語'''
::祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘(かね)の声(こえ)、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響(ひびき)あり。<br />沙羅双樹(さらそうじゅ)の花(はな)の色(いろ)、 盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす。<br /> おごれる人(ひと)も久し(ひさし)からず、 ただ春の夜の夢のごとし。 <br />猛き(たけき)者(もの)も つひ(つい)には滅びぬ(ほろびぬ)、ひとへに(ひとえに)風(かぜ)の前(まえ)の塵(ちり)に同じ。
</div>
 
[[File:Biwa-hoshi.jpg|thumb|琵琶法師(びわほうし)。]]
<big>琵琶法師</big>(びわほうし)という盲目(もうもく)の僧の人物が、琵琶による弾き語りで各地で平家物語などを語り歩いたという。当時は、文字の読める人が少なかった。
 
随筆では<big>鴨長明</big>(かもの ちょうめい)による<big>『方丈記』</big>(ほうじょうき)や、<big>吉田兼好</big>( よしだ けんこう、兼行法師(けんこうほうし) )の<big>『徒然草』</big>(つれづれぐさ)などが出てきた。
 
朝廷の貴族を中心とした和歌などの文化も残っていた。朝廷では後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の命令により、藤原定家(ふじわらの さだいえ、ふじわらの ていか)により<big>『新古今和歌集』</big>(しんこきんわかしゅう)が編集された。
 
鎌倉時代の和歌集は他にもあり、3代将軍の源実朝(みなもとの さねとも)によって残された『金槐和歌集』(きんかい わかしゅう)がある。武士出身の歌人もあらわれ、源実朝や、武士から僧になった西行(さいぎょう)などの歌人もあらわれた。
 
[[ファイル:Nio guardians by Unkei in Nara.jpg|thumb|200px|left|木造金剛力士像(国宝)]]
彫刻(ちょうこく)では、<big>金剛力士像</big>(こんごうりきしぞう)が、つくられた。金剛力士像がある場所は、奈良の東大寺の南大門にある。この金剛力士像を作った彫刻家(ちょうこくか)は<big>運慶</big>(うんけい)と<big>快慶</big>(かいけい)である。
 
東大寺は、平安時代からあった寺ですが、平氏に焼き払われたので、鎌倉時代のはじめごろに再建されました。この再建のときに、中国大陸の宋の建築様式である大仏様(だいぶつよう)が南大門などに取り入れられました。大仏様は天竺様(てんじくよう)ともいいます。
 
[[ファイル:Minamoto no Yoritomo.jpg|200px|thumb|似絵(にせえ)。源頼朝が描かれている。]]
絵画では、<big>似絵</big>(にせえ)という肖像画が描かれるようになった。
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