「中学校社会 歴史/鎌倉時代」の版間の差分

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小学校社会 6学年 上巻 2014年6月26日 (木) 15:33‎‎ から、とりあえず鎌倉時代の制度と文化を引用。若干、加筆。
阿氐河荘の農民の訴えを記述。その他、鎌倉仏教の画像を追加。
101 行
 
=== 民衆の暮らし ===
農民の負担は、荘園や公領の領主への年貢だけでなく、地頭も労役などを農民に負担させていた。こうして、領主と地頭とによる二重の支配を農民は受けていた。地頭の領主は、領主と同じように強くなっていき、地頭と領主とが裁判であらそうようにもなった。幕府は、領主の土地の半分を地頭のための物としたり( 下地中分(したじちゅうぶん) )、地頭から一定の年貢を領主に納めることを条件に地頭が領地を支配するようになった。( 地頭請(じとううけ) )
 
農民の中には、地頭のきびしい支配を領主に訴えでる者たちも、あらわれた。
 
<div style="border:1px solid #000000;">
:<big>紀伊国(きいのくに)の阿氐河荘(あてがわしょう)の農民の訴え</big>
 
::(荘園領主に納める)材木のことですが、地頭が都に行くからだとかで、人夫(にんぷ)として、こきつかうので、ヒマがありません。わずかに残った人夫を、山へ材木の切り出しのために出かけさせようとしても、地頭がやってきて追い返さして、「逃げた農民の畑に麦をまけ」と言って、追い返さしてしまったのです。
 
::地頭は おどして、「お前たちが麦をまかないと、女や子供を捕らえて、耳を切り、鼻をそぎ、髪を切って尼(あま)にして、縄で縛って(しばって)苦しめるぞ。」といって、いじめるのです。
 
::このような地頭の責め立てが続くので、材木の納入が遅れてしまうのです。その上、地頭は農民の家を一件、こわして持って行ってしまいました。
 
::地頭が農民を何度もいじめますので、農民たちは逃げていってます。
 
:建武(けんむ)元年(1279年)、10月28日。
 
:( 『高野山文書』(こうやさん もんじょ) )
</div>
 
 
=== 農業の発達 ===
鎌倉時代の農業では鉄を用いた農具が普及し、そのため農業が発展した。
 
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牛や馬を用いて、牛や馬に鋤(スキ)をひかせて田を耕す方法も行われるようになった。また、草を焼いた灰や木を焼いた灰( これらを草木灰(そうもくばい)という )や糞尿(ふんにょう)の肥料(ひりょう)も使われた。
 
=== 産業の発達 ===
商業や工業も発展していった。
 
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===鎌倉仏教===
鎌倉時代には、武士や庶民にもわかりやすい新しい宗派が生まれ、信者を多く得ることになった。新しく開かれた修行を重んじる禅(ぜんしゅう)は、武士一覧気風にあっているこその特色を次の表もあり、武士とめった。北条氏は、禅宗を保護し、宋から禅僧を招いたり、建長寺(けんちょうじ)や円覚寺(えんかくじ)など、各地に禅寺を建てた。
禅宗以外の浄土信仰などは、幕府や朝廷からは迫害(はくがい)も受けたが、民衆に広がっていった。
鎌倉時代の前からある、天台宗や真言宗などの宗派も、貴族などを中心に引き続き、信仰されていた。
 
新しく開かれた宗派の一覧とその特色を次の表にまとめた。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
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| '''臨済宗'''<br>(りんざいしゅう)
| '''栄西'''<ref>喫茶の習慣を日本に伝えたとされている。</ref><br>(えいさい)
| style="text-align:left" rowspan="2" | 坐禅(ざぜん)によって悟りを得られる、と説いた。道元も栄西も、宋に渡って教えを日本に持ち帰って広めた。
|-
| '''曹洞宗'''<br>(そうとうしゅう)
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*画像
<gallery widths=200px heights=200px>
ファイル:ShinranShonin.png|親鸞(しんらん)。浄土真宗。
ファイル:Dogen.jpg|道元(どうげん)。曹洞宗。
File:Nichiren Daishonin Hakii Portrait.jpg|日蓮(にちれん)。
File:Eisai.jpg|栄西(えいさい)。臨済宗。
ファイル:Abbot_of_Watkungtaphao-Luang_Phor_Somchai.jpg|座禅するタイの僧侶
ファイル:Zazen au Centre Européen du Zen Rinzai.jpg|ヨーロッパ臨済禅センターの坐禅
</gallery>
=== 新しい文化 ===