「中学校社会 歴史/戦国時代と安土桃山時代」の版間の差分

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刀狩令などの現代語訳を記述。
安土桃山文化について加筆。
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1685年、羽柴秀吉は朝廷から <big>関白</big>(かんぱく) の称号を、もらう。
1586年、羽柴秀吉は朝廷から<big>豊臣</big>(とよとみ)の姓(せい)をもらい、<big>豊臣秀吉</big>(とよとみ ひでよし)と名乗る許可を得ます。秀吉は、関白と太政大臣(だいじょうだいじん)の朝廷の地位を手に入れる。
 
そして秀吉は、各地の大名どうしに争いをやめるように停戦命令として惣無事令(そうぶじれい)を1585年に出す。停戦命令に従わなかった九州の島津(しまづ)氏は、1587年に征伐され屈服させられた。
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=== 朝鮮出兵 ===
国内を統一した秀吉は、つぎに、外国を征服(せいふく)しようとした。そのため、中国大陸、当時はの帝国である明(みん)といに、日本が取ってかわろと考えた。まず、マニラ(フィリピン)や台湾に、日本への服属を求める手紙を送った。そして、明を征服しようするこを秀吉は考えた。このための足がかりとして、まず朝鮮(ちょうせん)に通行の許可(きょか)や協力などをもとめたが、朝鮮に断られたため、朝鮮との戦争になり、2度にわたって朝鮮に兵をおくって戦争をした。この戦争を日本での現代の呼び方で、<big>朝鮮出兵</big>(ちょうせん しゅっぺい) とか <big>朝鮮侵略</big>(ちょうせん しんりゃく)と 言う
 
※ 教科書には「朝鮮侵略」という表記のみを用いる教科書もあるが、日本国民間での「朝鮮侵略という表記のみを用いる。」というような合意は無いし、教科書検定も指示していない。「朝鮮出兵」の表記も、教科書検定で認められている。( たとえば平成23年度検定版、育鵬社(いくほうしゃ)「新しい日本の歴史」にて「朝鮮出兵」の表記を確認。 )
この戦争を日本の呼び方で、<big>朝鮮出兵</big>(ちょうせん しゅっぺい) とか <big>朝鮮侵略</big>(ちょうせん しんりゃく)と いいます。
 
ここで気をつけてほしいのは、朝鮮の最初の目的は、けっして朝鮮半島への征服ではなく、中国大陸への征服です。名前が「朝鮮出兵」とか「朝鮮」侵略なので、てっきり朝鮮の領土などをねらった戦争だろうとマチガイやすいかもしれませんが、秀吉が最初に狙ったのは明(みん)の征服であって朝鮮の領土ではありません。
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なお、20世紀の後の時代の戦争で朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)という戦争がありますが、朝鮮出兵とは別の戦争です。朝鮮戦争は北朝鮮と韓国戦争との戦争です。名前が似ていますが、まちがえないでください。
 
秀吉の朝鮮出兵は2度あり、最初の1回目の出兵は1592年( 天正(てんしょう)20年 )にあり 文禄の役(ぶんろくのえき) と言い15万人ほどの日本兵が出兵され、2回目の出兵は1597年( 慶長(けいちょう)2年 )にあり 慶長の役(けいちょうのえき) と言います。
 
2つの出兵とも、最終的に日本は朝鮮の征服に失敗します。
 
[[image:TurtleShip1795.jpg|thumb|left|250px|『行録』などの記述をそのまま絵にしたもので、亀甲船の'''想像図'''。少なくとも18世紀以後に描かれたものであり、史料価値はほとんどない。]]
[[File:Statue of Yi Sunsin - Sejongro Seoul.JPG|thumb|200px|李舜臣の像。(韓国、ソウル。)]]
1回目の朝鮮出兵である文禄の役 では、朝鮮の各地や海上で日本軍は朝鮮軍と戦い、朝鮮の首都の漢城(かんじょう、今のソウル)なども一時は占領したが、最終的に敗退する。朝鮮の水軍(すいぐん)の軍人である李舜臣(日本語よみ :り しゅんしん、  韓国語よみ :イ スンシン)がひきいる亀甲船(きっこうせん)に、日本は苦戦した、といわれている。また明からの援軍が朝鮮に協力したので、日本の戦況は不利になっていった。
 
朝鮮の民衆も朝鮮軍に協力したが、このため、朝鮮軍だけでなく朝鮮の民衆も戦争に巻き込まれた。
 
戦争が長引き、一度、休戦した。しかし、明の皇帝の国書には秀吉を日本国王に命じる、などと書かれており、秀吉が不満を持ち、講和がまとまらず、二度目の戦争が起き、14万人あまりの大軍が朝鮮半島に出兵された。
 
[[File:Mimizuka2.jpg|thumb|left|240px|京都にある耳塚(鼻塚)。朝鮮出兵で切り取られた耳や鼻を供養(くよう)している。]]
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::・朝鮮の陶器(とうき)の文化が日本に伝わる。朝鮮人の捕虜が日本に連行されたり、物品の略奪などを通して。佐賀県の有田焼(ありたやき)、鹿児島県の薩摩焼(さつまやき)、山口県の萩焼(はぎやき)など。今では、その地方の特産品の一つになっている。
 
::・朝鮮の活字(かつじ)技術が日本に伝わる。
有田焼は朝鮮人の李参平(り さんぺい、イ チャムピョン)などの陶工によって始められた。
 
検定教科書によっては、「朝鮮侵略の際に、儒学の一派である朱子学(しゅしがく)が日本に伝わった。」というような記述もあるが、朱子学じたいは鎌倉時代ごろには既に日本に伝わっている。
朝鮮出兵の当事、朝鮮王朝が官学として朱子学を採用していた。江戸時代に日本で朱子学が、はやることになる。江戸以前は、あまり朱子学は、はやらなかった。儒教についても同様で、古代から日本に伝わっており、けっして朝鮮出兵で日本に儒教が伝わったのでは無い。江戸時代に朱子学のはやるきっかけの一つの可能性かもしれないが、可能性であり、定かではない。
 
 
== 安土・桃山文化 ==
信長が生きてて影響力の強かったころの安土文化(あづち ぶんか)と言います。信長が安土城(あづちじょう)を建てさせたころの文化だからです。秀吉の時代の文化を桃山文化(ももやま ぶんか)と言います。「桃山」とは、秀吉が築いた伏見城(ふしみじょう)の、のちの時代の地名です。安土文化と桃山文化を合わせて安土桃山文化(あづちももやま ぶんか)と言います。
安土文化と桃山文化を合わせて安土桃山文化(あづちももやま ぶんか)と言います。
 
* 茶道(さどう)
[[Image:Sen no Rikyu JPN.jpg|200px|thumb|千利休<br>(画:長谷川等伯)。利休は、のちに秀吉の怒りを買い、自害を命じられ、自害した。]]
室町時代に生まれた茶の湯は、<big>千利休</big>(せんの りきゅう)により、質素さや簡素さなどの「わび」(侘び)を重んじる、「侘び茶」(わびちゃ)とよばれる茶道(さどう)へと発展した。
織田信長のころから、めずらしい茶器(ちゃき)が好まれるようになった。朝鮮出兵のときに陶工を捕虜として連行した理由の一つには、このようなことがある。
 
千利休により、妙喜庵待庵(みょうぎあん たいあん)などの茶室が造られた。(※ ウィキペディアに茶室内部の画像が無いので、外部で探してください。)妙喜庵待庵は国宝になってる。妙喜庵待庵の茶室の広さは、わずか二畳しかない。
 
* 絵画
[[Image:Kano_Eitoku_002.jpg|330px|thumb|left|『唐獅子図屏風』(からじし ずびょうぶ)、狩野永徳。]]
 
ふすま絵や屏風絵(びょうぶえ)が発達した。<big>狩野永徳</big>(かのう えいとく) や 弟子の狩野山楽(かのう さんらく) などの 狩野派(かのうは) の画家が活躍した。ふすま絵や屏風絵(びょうぶえ)を合わせて障壁画(しょうへきが)という。
 
狩野永徳の作品の『唐獅子図屏風』(からじし ずびょうぶ)が有名。
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南蛮貿易により、ヨーロッパの医学・天文学・印刷技術が日本に伝わる。
 
パン(pão)やカステラ(pão de castela)、カボチャ、カッパ、カルタ(carta)、テンプラ(Temporas)、たばこ(tabaco)、ボタン(Botão)が日本に伝わる。 (※ ポルトガル語表記は、おぼえなくてよい。「pão」や「carta」などは、おぼえなくてよい。)
 
「カステラ」の由来は、有力な説はポルトガル語でCastelaがスペインのカスティーリャ地方のことだが、カスティーリャ地方のパンケーキという意味でカステラが日本に伝わって、日本語の「カステラ」になったという。 (※ ポルトガル語表記は、おぼえなくてよい。)
 
逆に日本からの輸出では、銀や刀や茶などが輸出され、catana(「カタナ」、刀のこと)などのポルトガル語の由来になった。屏風がbiomboに、坊主がbonzoに、伝わった。
 
* 芸能
浄瑠璃(じょうるり)と歌舞伎(かぶき)
[[画像:Shitahaku_kejo.jpg|thumb|150px|三線(さんしん)]]
:* 三味線(しゃみせん)と浄瑠璃(じょうるり)
:琉球から 三味線(しゃみせん)のもとになる三線(さんしん)が日本に伝わった。日本で 三味線(しゃみせん)として発展した。民衆のあいだで、三味線の音色に合わせて、人が物語をかたるのを見て楽しむ浄瑠璃(じょうるり)が流行る。この浄瑠璃は、さらに発展し、人の代わりに人形を使う人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)へと発展した。
 
[[File:Izumo no Okuni.jpg|thumb|left|出雲(いづも)の阿国(おくに)。歌舞伎踊り。(かぶき おどり)で、念仏踊りをしている。 『国女歌舞伎絵詞』(くにじょ かぶきえ ことば)]]
:* 浄瑠璃(じょうるり)
:民衆のあいだで、三味線の音色に合わせて、人が物語をかたるのを見て楽しむ浄瑠璃(じょうるり)が流行る。この浄瑠璃は、さらに発展し、人の代わりに人形を使う人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)へと発展した。
 
:* 歌舞伎(かぶき)
:「出雲(いづも)の阿国(おくに)」という女が始めた歌舞伎踊り(かぶき おどり)が人気(にんき)になる。出雲とは、今でいう島根県。当時は異様な服装や行いをすることを「かぶく」(傾く)と言っていた
 
のちの江戸時代には歌舞伎は演劇となっていき男だけが歌舞伎を行うことになるが、この安土桃山時代には女が歌舞伎踊りをしていた。
 
 
衣服では、小袖(こそで)が普及していった。木綿(もめん)の衣服が、麻にかわって一般的になった。民家の屋根には瓦屋根(かわら やね)の様式が京都などでは増えていった。
 
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