「中学校社会 歴史/世界恐慌と各国の対応」の版間の差分

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小学校社会 6学年 上巻 2014年7月9日 (水) 21:49‎ から、戦前期の昭和の内容について、とりあえず引用。
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1927年から1989年までに当たるが、[[第二次世界大戦]]終結(1945年9月2日)もしくは[[日本国憲法]]施行(1947年5月3日)を境に、国の形が全く違っている。第二次世界大戦終結前は天皇主権の「'''大日本帝国'''」の時代であり、第二次世界大戦後は国民主権の「'''日本国'''」の時代である。
 
特徴として、大日本帝国の昭和年間(1927年~1945年)は、[[中学校社会 歴史 帝国時代|帝国時代]]の末期であり、'''ファシズム時代'''である。一方で、日本国の昭和年間(1945年~1989年)は、[[中学校社会 歴史 民主国家時代|民主国家時代]]の一部であり、'''[[冷戦]]'''(れいせん)時代である。
 
大日本帝国の昭和年間、日本国の昭和年間の共通要素としては、「'''[[核兵器]]の時代'''」である点が挙げられる。大日本帝国の昭和年間は原爆投下が起こった「'''核戦争の時代'''」であり、日本国の昭和年間は冷戦による「'''核平和の時代'''」である。しかし、核開発自体は1930年代から極秘に始まっていたが、本格的に核兵器時代が始まった時は、1945年8月の原爆投下である。尚、「核平和の時代」の終わりは1989年で、昭和天皇の死と共に[[東欧民主化革命]]が起きた年である。
 
==大日本帝国年間==
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日本は日中戦争の長期戦打開のために1941年フランス政府との合意の上仏領インドシナ(現:ベトナム)に進駐するが逆に米英から石油禁輸などの強硬な経済制裁を受け日米間の関係悪化は決定的になっていった。このときに形成された対日経済包囲網を「ABCD包囲陣」ABCD包囲網(エービーシーディーほういじん)という。
 
その最中、日本はアメリカと交渉を行い石油禁輸解除を求めるも逆に「ハル・ノート」と呼ばれる強行案<ref>満州を含む中国全土からの即時撤退などを要求。</ref>を提出され対米開戦を決意。
 
1941年に太平洋戦争(読み:たいへいようせんそう、 大東亜戦争(だいとうあせんそう) とも言う。)<ref>戦後「大東亜戦争」の使用が禁止されたため「太平洋戦争」の名称が一般的になった。</ref>が勃発する。日本は戦争目的を自存自衛とアジアを欧米の植民地から解放し「大東亜共栄圏」(だいとうあ きょうえいけん)を建設することであると宣言した。<ref>しかし日本軍政下のもとで神社参拝、日本語教育の強制が行われたので現地人から反感を買い抗日運動が頻発した。</ref>当初は勝ち戦にみえたが翌年1942年のミッドウェー海戦で形勢が逆転。以降は敗走の連続で国民は物資の不足に悩まされる。南洋諸島の多くでは物資の不足に苦しみ玉砕の戦場となっていった。
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==日本国年間==
===概観===
敗戦後の日本は、連合国による占領下に置かれ、政治体制は変わり絶対主義・帝国主義から民主主義・平和主義に変わった。日本国民は国際社会に復帰することとなった。
 
戦後から約30年ほど経つと、日本の経済力は世界第2位の規模(GNPという指標による)となったが、一方で成長に限界が生じ、安定的な経済成長の下、成長に伴って生じた問題点の解決が求められ、現在にいたっている。
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==出来事==
年表中の単語のリンク先はウィキペディア。
===大日本帝国年間===
*[[w:1926年|1926年]](昭和元) - 大正天皇死去、摂政宮裕仁親王即位
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*[[中学校社会 歴史/第二次世界大戦]]
*[[中学校社会 歴史/冷戦]]
 
== 本文 ==
=== 世界恐慌とブロック経済 ===
* アメリカ
第一次世界大戦の前からアメリカは生産力がとても高かった。さらに、戦争によヨーロッパが弱体化したので、戦後はアメリカが世界経済や国際政治の中心地になった。
 
 
*世界恐慌(せかい きょうこう)
[[ファイル:Crowd outside nyse.jpg|thumb|300px|right|アメリカの記入取引所のウォール街(ウォールがい、場所はニューヨークにある)で、騒然(そうぜん)とするアメリカ人たち。]]
1929年に、アメリカで株価が大きく下がった。株価などが大きくさがることを「暴落」(ぼうらく、英:Crash)あるいは「大暴落」(だいぼうらく、英:Great Crash)などという。この株価の大暴落(だいぼうらく)をきっかけに、世界的な不景気になり、世界中で多くの会社が倒産したり銀行が破綻(はたん)して、世界中で失業者が増えた。このアメリカの株価の暴落がきっかけになった世界の不景気を<big>世界恐慌</big>(せかい きょうこう、英:world economic crisis ワールド・エコノミック・クライシス)という。
 
このアメリカでの暴落が起きた日の曜日が木曜日だったので、「暗黒の木曜日」つまり英語に直すと「ブラック・サーズデイ」(black Thursday)とも、言うようになった。アメリカでは、労働者の4人につき1人が失業した。(失業率25%)
 
 
*日本の状況
日本は、アメリカ向けの生糸などの輸出でもうけていたので、日本も世界恐慌の影響を強く受け、日本も不景気になった。日本では世界恐慌の前から、すでに大戦景気の終わりによって不景気になっていた。その上、さらに世界恐慌がやってきて、日本はとてつもなく不景気になった。
 
多くの会社が倒産した。このため、三菱や三井・住友などの財閥が倒産した会社の事業を吸収した。だが、このことによって、財閥が大もうけしていると庶民から見られるようになり、財閥が敵視されるようになっていった。
 
同じころ、第一次大戦後の軍縮のながれがあったので、各国の政府は不景気もあり軍事費をへらすため、軍縮に同意した。
 
だが、日本では、軍部から政党を敵視する意見が強くなった。
そして、政党も財閥の見方をしていると考える勢力がおおくなり、軍部からは政党を敵視する意見が強くなった。
 
 
日本では、農業が混乱していた。まず1930年では、豊作で米の価格が暴落し、農家の収入がへり、農家がくるしくなった。そして翌年の1931年には、こんどは凶作で、東北地方を中心に、農村が不況になった。欠食児童(けっしょくじどう)がでたり、娘(むすめ)を身売りさせる家も出てきた。
 
*ドイツの状況
ドイツでは第一次大戦の賠償で国家財政が苦しくなっているのに加えて、そこに大恐慌がやってきたので、貨幣のマルクの信用が落ち、物価がものすごく上がった。このように物価が上がることを インフレ(英:inflation インフレーション) と言う。ものすごく物価が上がることを ハイパー・インフレ(英:Hyperinflation) という。
 
パンなどの食料品を買うのにすら、手押し車に札束をたくさんつめて買い物をする、という状況であった。
このような状況のため、ドイツ経済は大混乱になり、失業者があふれた。
 
 
 
* ブロック経済(ブロックけいざい)
欧米などの各国は、世界恐慌の負担を、植民地におしつけた。そのため、イギリスとフランスは、本国と植民地とのあいだだけで自給自足をしようとして、外国からの輸入品には高い税金をかけて、追いだそうとした。(このような、外国の商品にかける税金を関税(かんぜい)と言う。つまりイギリスやフランスなどは、輸入品に高い関税をかけた。)
 
このようにして植民地と本国だけからなるブロック内で自給自足する ブロック経済(ブロックけいざい、英:bloc economy) をつくっていった。そのため、今までの自由貿易主義を、イギリスやフランスは、やめていった。
 
こうなると、日本やドイツなどの、あまり大きな植民地をもたずに、貿易による輸出でかせいでいた国は、とても経済が苦しくなることになる。実際に、日本の経済は苦しくなっていった。
 
イギリスほどの植民地ではないが、日本もまた満州に権益をもっていたので、満州の権益の保護を強めようとした。
 
[[ファイル:Chiang Kai-shek Colour.jpg|thumb|150px|蒋介石(しょう かいせき)]]
同じ頃、中華民国では、孫文の亡くなったあと、国民党で権力闘争が起き、その闘争に勝った蒋介石(しょう かいせき)が支配していた。蒋介石は、もとは軍学校の中国軍の幹部を養成する黄埔軍官学校(こうほ ぐんかんがっこう)の校長をしており、そのため、蒋介石は軍事力をにぎっている立場にあり、政敵との権力闘争で有利だった。蒋介石によって国民党が支配された後、国民党による中国大陸の統一を目指した武力行動によって中華民国内での国民党の勢力が広まっていき、この国民党と日本とのあいだで、満州の権益をあらそうことになっていった。
 
ちなみに蒋介石は日本に留学していた経験を持ち、日本の軍学校の東京振武学校(とうきょう しんぶがっこう)で軍事学をまなび、軍事訓練を受けていた経験も持つ。
 
 
いっぽう、蒋介石の権力に不満のある軍閥は、共産党(きょうさんとう)という、国民党とはべつの勢力に加わっていくことになる。
 
いっぽう、ヨーロッパでは、第一次大戦で植民地および領土を失ったドイツと、もとから植民地の少ないイタリアを中心に、イギリスやフランスなどを敵視する勢力が強くなった。
 
[[ファイル:Adolf Hitler-1933.jpg|thumb|200px|left|ヒトラー]]
とくにドイツでは、第一次大戦による賠償金などもあり経済が苦しかった上に、世界恐慌により、ドイツの貨幣の価値が暴落した。このような状況により、ベルサイユ条約への不満が高まり、このベルサイユ条約への批判をかかげる政党である'''ナチス'''(ドイツ語:Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)ひきいる政治家の'''ヒトラー'''(Adolf Hitler アドルフ=ヒトラー)が、ドイツ国民の支持をあつめて、1932年の選挙では、ヒトラーひきいるナチスが政権を手にした。1934年にはドイツの憲法を無視して独裁体制をつくり、そして1935年にはベルサイユ条約からドイツは抜けた。ドイツの国民はヒトラーの、このような政策を支持した。ベルサイユ条約ではドイツの軍備が規制されていたが、条約をやめたのでドイツは再軍備(さいぐんび)をしていった。
 
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*世界的な傾向
ソビエト連邦は、経済が、もとから共産主義であり、欧米型の資本主義ではなかったので、あまりソビエトは世界恐慌の影響をうけなかった。
 
このようなこともあり、世界恐慌にくるしむ各国では、ソビエトのように経済における統制をしようとする意見が強まっていく。
 
そして、経済だけでなく、政治全体においても統制を強めようとする全体主義(ぜんたいしゅぎ)の意見が、日本でも軍部などを中心に強まっていく。
 
こうして、世界恐慌により、全体主義の国が増えていく。
もとから全体主義であるソビエトや中華民国にくわえて、さらにドイツやイタリアや日本が、全体主義になっていった。
 
 
*民主主義について
現在(2014年に記述)の日本では、民主主義および平和主義を、政治の根本にしているので、これら2つの主義を混同しがちですが、そもそも民主主義と平和主義とは別の主義です。
民主主義とは、単に、「政治の主権者が国民であるべきだ。」という思想のことです。したがって、国民が戦争を支持すれば、民主主義国では戦争は支持されます。
 
[[File:JStalin Secretary general CCCP 1942 flipped.jpg|thumb|200px|ソビエト連邦の独裁者である、スターリン。]]
ソビエトや中華民国は、けっして民主主義では、ありません。ソビエトや中華民国には、普通選挙などの一般の国民による選挙制度が、ありません。当時のソビエトはスターリンの独裁する独裁国家です。中華民国も、蒋介石の独裁する国家です。(当時の中華民国に、選挙制度なんてありません。)イギリスの例からも分かるように、民主主義とは、べつに平和主義のことでは、ありません。イギリスは戦争によって、インドや中国を植民地にしたのです。
 
 
*ファシズム
ドイツおよび日本の全体主義的で軍国主義的な思想や傾向は、ファシズムと言われた。元々の意味は、イタリアの政党の「国家ファシスト党」(こっかファシストとう、イタリア語: Partito Nazionale Fascista、PNF))の政治思想が言葉の由来である。このイタリアのファシスト党の政治思想が全体主義的で軍国主義的な思想だったので、このような全体主義的で侵略的な思想をファシズム(fascism)というようになった。そして、このような軍国主義的な傾向をかかげるドイツや日本の政治家を、アメリカやイギリスなどが「ファシスト」(fascist)と批判するようになった。「ファシズム」という用語は、アメリカなどがドイツを批判するためにもちいたのであり、ドイツのナチス党自身はナチス自身の政策のことを「国家社会主義」(こっか しゃかいしゅぎ,ドイツ語: Nationalsozialismus、英語: national socialism)と言っていた。
 
しかし、ソビエトと中国での軍国主義はファシズムとは呼ばれない。
ソビエトや中国の思想も、ドイツなどと似たような軍国主義的な思想だったが、のちにドイツとソビエトが対立し、また日本と中国とが対立したこともあり、またアメリカやイギリスがソビエトおよび中国と協力したので、ソビエトと中国での軍国主義はファシズムとは呼ばれないことになっていった。
 
このように、「ファシズム」や「ファシスト」という言葉は、アメリカやイギリスなどの都合でドイツや日本の政治を批判した言葉に過ぎず、あまり正確な意味をもたない。
 
スペインや東ヨーロッパの諸国の政治でも、軍国主義的な勢力が強くなっていった。
 
=== 満州事変 ===
[[File:Manchukuo map 1939.svg|thumb|600px|満州国の位置。Manchukuoが満州国。1939年ごろ。]]
中国大陸の東北部にある満州で、日本軍により1931年に満州国(まんしゅうこく)が建国されます。
 
==== 満州事変にいたるまでの経緯 ====
[[File:Zhang Zuolin3.jpg|thumb|殺された、張作霖(ちょう さくりん)]]
中国では、辛亥革命のあと、各地で、「自分こそが中華民国の正当な支配者である」と主張する多くの軍閥が、おたがいに、あらそっていた。
 
孫文のつくった国民党と、そのあとをついで国民党の支配者になった蒋介石も、当時は、そのような軍閥の一つにすぎない。中国の国民は、だれも選挙で蒋介石をえらんではいない。当時の中国に選挙の制度なんて無い。
 
満州を支配していた中国人は、張作霖(ちょう さくりん)という満州地方で軍閥をひきいていた人物だった。張作霖は、満州および北京を支配していた。
 
満州の軍閥の張作霖は、日本と協力することで日本を利用して、満州を実質的に支配していた。
 
 
いっぽう、中国大陸の南部では、国民党の蒋介石が南京を中心地に支配していた。
 
蒋介石は、中国の統一を目指し、張作霖ひきる北京政府を倒す戦いを始めた。この蒋介石のたたかいを 北伐(ほくばつ) と言う。
 
蒋介石ひきいる北伐軍が北京にせまってきたので、張作霖は北京から奉天に引き上げようとした。その列車の中で、張作霖は日本の一部の軍人の陰謀により爆殺される。張作霖が、日本のいうことを聞かなくなってきたので、かれを殺害しようとする陰謀だった。
 
この爆殺事件を「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりん ばくさつじけん)などと言う。
 
 
だが結果的に、陰謀は裏目にでる。張作霖の息子の張学良(ちょう がくりょう)は日本に反発し、蒋介石ひきいる国民党に合流することになる。
 
当時の首相の田中義一らは、この爆殺事件の犯人の日本軍人たちをきびしく処罰しようとした。
だが政府は、陸軍などの反対にあい、犯人の軍人たちを、きびしく罰することができなかった。そのせいで、のちに軍人たちが政府や議会のいうことを聞かなくなっていく。
 
 
そもそも北京から北の地方の土地である満州地方などは、歴史的には、中国の土地ではない時代が多い。中華民国の前の清の時代には、たまたま満州が清を支配していた満州族の出身地だったので、清では満州は清の領土だった。また、中華民国ができた後も、中華民国が清の領土を引きつぐことになったので、国際社会からは満州は中華民国の領土だと見なされていた。
 
このような背景があるので、日本は直接は満州を支配せず、張作霖などを通して満州への影響力をもっていた。
 
満州の実効的な支配をめぐって、日本の軍部と蒋介石と張一族などの軍閥とが、あらそった。
 
満州の住民は、だれも支配者を選挙で選んでいない。日本の進出が満州住民からは選挙で選ばれてない。また蒋介石の満州進出の方針も、べつに満州住民から選挙で選ばれたわけではないし、張一族も満州住民から選挙されてはいない。
 
 
日本は、はじめは、まだ満州を占領していない。そもそも満州に日本軍をおくようになったキッカケは、日露戦争の勝利によって、鉄道などの権益をロシアから日本がゆずりうけ、その権益をまもるために満州に日本の軍隊がおかれたのであった。
 
よって、そもそも日本政府は満州の領有をめざしていなかった。このため、満州事変をおこしたのは、けっして日本政府の命令ではなく、現地の日本軍の軍人が勝手に満州事変を行ったのである。
 
 
==== 満州事変 ====
満州現地の日本軍の関東軍(かんとうぐん)は、軍閥や国民党よりも先に満州を占領しようと考えた。
 
[[ファイル:Kanji Ishiwara2.JPG|thumb|200px|left|石原莞爾(いしはら かんじ)]]
[[File:Puyi-Manchukuo.jpg|thumb|right|200px|溥儀(ふぎ)]]
 
陸軍課長であった石原莞爾(いしはら かんじ)は、満州を占領する口実をもうけようとして、満州の日本軍は自作自演(じさくじえん)の事件を起こさせた。
 
どういう事件かというと、南満州鉄道(みなみ まんしゅう てつどう)の線路を爆破した事件である。この自作自演の事件を 柳条湖事件(りょうじょうこ じけん) と言う。
 
日本軍である関東軍は、この柳条湖事件を中国側のしわざだと断定し、奉天などの都市を占領し支配下においた。
そして1932年に、日本軍は満州国の建国を宣言した。
 
日本の新聞(たとえば朝日新聞など)や世論は、満州国の建国を支持した。
 
 
しかし、満州は表向きは独立国とはいうものの、満州の政治は日本人がおこなっており、実際は満州は日本の領土のような状況であった。
このことから、第二次大戦後の日本の歴史教科書では、満州国のことを傀儡(かいらい)政権とか傀儡国家などと言われることが多い。傀儡(かいらい)とは、操り人形(あやつりにんぎょう)のことである。
 
 
このとき日本本土(ほんど・・・満州や朝鮮などの「外地」に対し、本州などを「本土」と言う。)の政府は、中国とは戦争をしない方針だった。なぜかというと、イギリスが中国を支持していたため、イギリスと戦争したくない日本政府も中国とは戦争しない方針だった。
 
しかし、満州の日本人居留民への中国人からの暴力事件などがあいつぎ、日本の世論が中国と協調しようとする日本政府を弱腰だと批判したこともあり、このような背景のもと陸軍は事変を強行して満州を占領をしていき、満州国の建国を宣言した。そして、清朝の最後の皇帝であった 溥儀(ふぎ) を、満州国の元首(げんしゅ)にさせた。
 
この一連の満州国の建国にいたるまでの事件および前後の事件を <big>満州事変</big>(まんしゅう じへん) という。
 
 
満州事変では、宣戦布告(せんせん ふこく)が無いので、「戦争」とは言わずに「事変」(じへん)と言います。
 
 
* 五・一五事件(ご・いちご じけん)
[[ファイル:May 15 Incident.jpg|thumb|700px|五・一五事件を報じる朝日新聞]]
このころ(1932年)、日本政府は満州の問題を、中国との話し合いで解決しようとしていた。しかし1932年の5月15日、日本海軍の一部の青年将校らが総理官邸に乱入して、首相の犬養毅(いぬかい つよし)を殺す事件をおこした。この一部の海軍軍人が原首相を殺害した殺人事件を <big>五・一五事件</big>(ご・いちご じけん) と言う。
 
犯人の軍人たちは、法律で処罰されることになった。だが、当時は政党の評判がわるかったので、世論では刑を軽くするべきだという意見が強かったので、犯人の軍人への刑罰を軽くした。(このような決定のせいで、のちに、軍人による、政治に圧力をくわえるための殺人事件が、ふえていくことになる。)
 
 
首相だった原が死んでしまったので、つぎの首相を決めることになり、そして次の首相は齊藤実(さいとう まこと)に決まった。斉藤は海軍出身だが、穏健派であった。
 
また、原毅のあとの首相は、しばらく軍人出身や官僚出身の首相がつづき、第二次世界大戦のおわりまで政党出身の首相は出なくなった。現在(2014年)の学校教科書などでは、このような理由もあり、五・一五事件で政党政治が終わった、と言われることが多い。
 
==== リットン調査団 ====
[[File:Lytton Commission in Shanghai.jpg|thumb|left|300px|中華民国の上海に到着(とうちゃく)したリットン調査団]]
[[File:Lytton Commission at railway.jpg|thumb|300px|柳条湖付近での満鉄の爆破地点を調査しているリットン調査団。]]
[[ファイル:2ndEarlOfLytton.jpg|thumb|300px|リットン。第2代リットン伯爵(リットンはくしゃく)、ヴィクター・ブルワー=リットン Victor Bulwer-Lytton]]
中国政府は、日本の満州での行動は不法である、と国際連盟にうったえた。そして、国際連盟による調査がおこなわれることになったので、イギリス人の リットン を委員長とする調査団の <big>リットン調査団</big>(リットンちょうさだん、英:Lytton Commission) が満州におくられた。
 
 
調査の結果、リットン調査団は、日本と中国の双方の主張を、みとめなかった。
 
調査団の報告と分析は、つぎのようなものであった。
:・ 調査の結果、満州族の住民による自発的(じはつてき)な独立運動では、無い。
:・ よって、満州の独立は、みとめないべきである。
:・ 日本は、事変以後の占領地からは、兵を引きあげるべきである。
:・ しかし、日本の(鉄道権益などの)事変前からの権益は正当なものであり、保護されるべきである。
:・ 日中の両国とも、国際連盟の加盟国であり、したがって両国の権利は公平に尊重されるべきである。
 
リットン調査団の決定は、日本の権益をまもるための通常の警備行動の正当性を、みとめたのであった。
そもそも調査団の活動内容は、満州事変の調査と混乱の解決のための提案にすぎない。なので、事変が起こる前の日中両国の行動の正当性については、リットン調査団は疑問を主張する立場にはない。
 
そして、日本の権益が認められたということは、うらをかえせば、中国の蒋介石による日本に対する抗日運動(こうにち うんどう)などの戦闘をしかけていたという事実には不利な内容であり、日本に有利な内容であった。
 
 
そして、リットン調査団は、日本と中国の両国がうけいれられるようにと、日本の権益をまもるための警備行動をみとめつつ、中国の領土として満州を自治共和国にするという、日中両国に気を使った提案(ていあん)をした。
 
 
しかし、日本の世論および政府の斉藤首相および内田(うちだ)外務大臣などは、リットン報告書(リットンほうこくしょ、英:Lytton Report)の日本に有利である意図を理解せず、報告書が満州国の建国をみとめるべきでないと主張してることからリットン報告を日本に不利な内容とおもい、報告書の提案に反発した。
 
 
日本から国際連盟におくられた全権の松岡洋介(まつおか ようすけ)は脱退に反対し、収集のための連盟での演説に努力をした。
 
しかし、この間にも、満州では陸軍が占領地を拡大していき(熱河作戦、ねっかさくせん)、こうして日本は国際的な信用をうしなってしまい、日本は国際的に孤立していき、ついに日本は1933年(昭和8年)3月に国際連盟から脱退した。
 
 
国際連盟では満州国建国の自発性が否定されたとは言っても、満洲国は日本以外にも、いくつかの国家から国家として承認を受け、外交関係が結ばれた。
 
のちにドイツやイタリアが満州国を承認(しょうにん)したほか、フィンランドやタイやクロアチア、スペインやバチカン、デンマークをはじめ20か国が満州国を承認した。
 
また、日本と中国とのあいだで、1933年5月には停戦協定がむすばれ、満州事変は、ひとまずは、おわった。
 
 
現代の評論家の一部には、1931年の満州事変から、1945年の第二次世界大戦の終わりまでの15年間を、「15年戦争」(じゅうごねん せんそう)などと言う評論家もいるが、実際にはこの15年間には停戦期間などもあるので、歴史学的には「15年戦争」という解釈は、あまり受け入れられていない。また、学校教育では「15年戦争」の語は用いられない。
 
 
さて、建国後の満州国は、日本からの投資もあり好景気になって経済や工業が発展していき、工業国になっていき、満州では自動車なども生産できるようになった。
 
 
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[[Category:社会|ちゅうかくこうしやかいれきししようわ]]