「中学校社会 歴史/日本の開国」の版間の差分

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小学校社会 6学年 上巻 2014年7月9日 (水) 21:49 から、とりあえず異国船の出没あたりから、戊辰戦争あたりまでの時期の記述を引用。
 
アヘン戦争などを削除。他の単元で紹介してあるので。
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=== アヘン戦争での清の敗戦の知らせ ===
=== ヨーロッパのアジア侵略(しんりゃく) ===
日本にもいっぽうアヘン戦争での清の敗戦の知らせが、日本に、貿易相手のオランダなどを通して、幕府の上層部に伝わっていきました。
:(※ 発展的分野です。<br>世界史(せかいし)的な内容になるので、小学校では教わらないのが、ふつうです。ですが、この節であつかう「アヘン戦争」は、中学校では確実にならうほどの、歴史的な重要事項です。読者に時間の余裕(よゆう)があったら、お読み下さい。)
 
日本が鎖国していたころ、ヨーロッパでは、科学技術がものすごく発達し、ヨーロッパの兵器の技術も発達していった。
19世紀のころ、産業の近代化などで国力をつけていたヨーロッパ諸国は、アジアとの貿易のしかたを変えるようになった。結論から分かりやすく言うと、ヨーロッパによるアジアへの侵略が始まっていった。
 
もっと、くわしく説明すると、つぎのような説明になる。
日本では戦国時代ごろだった16世紀ごろは、ヨーロッパは、貿易相手のアジアの国とは、あまり戦いをしなかった。だが、そのあと、ヨーロッパの近代化でヨーロッパの国力が強まったことで、ヨーロッパはアジアに対しても侵略的になっていく。
 
(アフリカや南米では、ヨーロッパは、すでに侵略的だった。)
 
たとえば、直接、アジアと戦争をして領土を獲得して、領地で現地のアジア人を安い値段で働かせ農産物などを生産して、本国のヨーロッパに産物を輸出するようになった。
また、ヨーロッパの武力を背景に、戦争で負かしたアジア諸国の国政に干渉するようになった。
 
* イギリスのインド支配
1800年台のはじめごろ、イギリスはインドに進出していました。イギリスの支配は、だんだんと強まっていきます。イギリスに対する大きな反乱が、1857年には、おきました。(「セポイの乱」と言います。)
ですが、イギリスは反乱を武力で平定し、そのあと、イギリスの支配をますますつよめ、インドを支配下におきました。
 
 
* イギリスのアヘン戦争(アヘンせんそう)
[[ファイル:Destroying Chinese war junks, by E. Duncan (1843).jpg|thumb|300px|アヘン戦争(アヘンせんそう)で、イギリス海軍の軍艦に吹き飛ばされる清軍のジャンク船を描いた絵]]
インドでの大反乱より昔になるが、1830年ごろ、イギリスはインドを中継として清(しん)と貿易をしていました。
 
イギリスは、あまり輸出品が清には売れず、そのいっぽうで、清からは茶(ちゃ)などを多く輸入していました。このため、イギリスから支払いのための銀が多く流出しました。この銀の流出をいやがったイギリスが、貿易でかせごうと、支配していたインドで麻薬(まやく)のアヘンをつくり、アヘンを清にこっそりと輸出します。
 
このため、清には多くの麻薬中毒者(まやくちゅうどくしゃ)が出てきて、また、支払いのための銀が清から流出していきました。
 
清が、アヘンの輸入を取り締まり始めます。すると、イギリスは貿易の自由を口実にして、戦争を1840年にしかけました。これが<big>アヘン戦争</big>(アヘンせんそう)です。イギリスの海軍の軍艦で、清の船を破壊するなどして、清はなすすべがなくなり、戦争はイギリスの勝利でした。
 
戦争に負けた清は、不利な条約である 南京条約(ナンキンじょうやく) をむすばされ、多額の賠償金(ばいしょうきん)を支払わされ、また清は香港(ホンコン)をイギリスにゆずりわたすことになってしまいました。
 
 
日本にも、清の敗戦の知らせは、貿易相手のオランダなどを通して、幕府の上層部に伝わっていきました。
また、幕府のほかの民間の学者の中にも、アジアがヨーロッパに侵略されていってるという情勢(じょうせい)に気がつく者があらわれはじめてきます。
 
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日本の幕府は、貿易相手のオランダなどを通して清の敗戦を知ったこともあり、異国船打払い(いこくせん うちはらい)の方針のままだと欧米と戦争になり、日本が侵略されてしまう、と考え、1842年に異国船打払いの方針をあらため、外国船に薪(たきぎ)や水・食料を補給(ほきゅう)することをゆるしました。
 
=== 黒船の来航 ===