「中学校社会 歴史/世界恐慌と各国の対応」の版間の差分
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加筆。 満州事変の意図を、不況解決策と見る解釈について。 |
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=== 世界恐慌とブロック経済 ===
第一次世界大戦の前からアメリカは生産力がとても高かった。さらに、戦争によってヨーロッパが弱体化したので、戦後はアメリカが世界経済や国際政治の中心地になった。
[[ファイル:Crowd outside nyse.jpg|thumb|300px|right|アメリカの記入取引所のウォール街(ウォールがい、場所はニューヨークにある)で、騒然(そうぜん)とするアメリカ人たち。]]
1929年に、アメリカで株価が大きく下がった。株価などが大きくさがることを「暴落」(ぼうらく、英:Crash)あるいは「大暴落」(だいぼうらく、英:Great Crash)などという。この株価の大暴落(だいぼうらく)をきっかけに、世界的な不景気になり、世界中で多くの会社が倒産したり銀行が破綻(はたん)して、世界中で失業者が増えた。このアメリカの株価の暴落がきっかけになった世界の不景気を<big>'''世界恐慌'''</big>(せかい きょうこう、英:world economic crisis ワールド・エコノミック・クライシス)という。
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日本は、アメリカ向けの生糸などの輸出でもうけていたので、日本も世界恐慌の影響を強く受け、日本も不景気になった。日本では世界恐慌の前から、すでに大戦景気の終わりによって不景気になっていた。その上、さらに世界恐慌がやってきて、日本はとてつもなく不景気になった。
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日本では、農業が混乱していた。まず1930年では、豊作で米の価格が暴落し、農家の収入がへり、農家がくるしくなった。そして翌年の1931年には、こんどは凶作で、東北地方を中心に、農村が不況になった。欠食児童(けっしょくじどう)がでたり、娘(むすめ)を身売りさせる家も出てきた。
ドイツでは第一次大戦の賠償で国家財政が苦しくなっているのに加えて、そこに大恐慌がやってきたので、貨幣のマルクの信用が落ち、物価がものすごく上がった。このように物価が上がることを インフレ(英:inflation インフレーション) と言う。ものすごく物価が上がることを ハイパー・インフレ(英:Hyperinflation) という。
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欧米などの各国は、世界恐慌の負担を、植民地におしつけた。そのため、イギリスとフランスは、本国と植民地とのあいだだけで自給自足をしようとして、外国からの輸入品には高い税金をかけて、追いだそうとした。(このような、外国の商品にかける税金を関税(かんぜい)と言う。つまりイギリスやフランスなどは、輸入品に高い関税をかけた。)
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イギリスほどの植民地ではないが、日本もまた満州に権益をもっていたので、満州の権益の保護を強めようとした。
==== 中華民国の状況 ====
[[ファイル:Chiang Kai-shek Colour.jpg|thumb|150px|蒋介石(しょう かいせき)]]
同じ頃、中華民国では、孫文の亡くなったあと、国民党で権力闘争が起き、その闘争に勝った'''蒋介石'''(しょう かいせき)が支配していた。蒋介石は、もとは軍学校の中国軍の幹部を養成する黄埔軍官学校(こうほ ぐんかんがっこう)の校長をしており、そのため、蒋介石は軍事力をにぎっている立場にあり、政敵との権力闘争で有利だった。蒋介石によって国民党が支配された後、国民党による中国大陸の統一を目指した武力行動によって中華民国内での国民党の勢力が広まっていき、この国民党と日本とのあいだで、満州の権益をあらそうことになっていった。
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いっぽう、蒋介石の権力に不満のある軍閥は、共産党(きょうさんとう)という、国民党とはべつの勢力に加わっていくことになる。
==== ドイツでのヒトラーの台頭 ====
いっぽう、ヨーロッパでは、第一次大戦で植民地および領土を失ったドイツと、もとから植民地の少ないイタリアを中心に、イギリスやフランスなどを敵視する勢力が強くなった。
[[ファイル:Adolf Hitler-1933.jpg|thumb|200px|left|ヒトラー]]
とくにドイツでは、第一次大戦による賠償金などもあり経済が苦しかった上に、世界恐慌により、ドイツの貨幣の価値が暴落した。このような状況により、ベルサイユ条約への不満が高まり、このベルサイユ条約への批判をかかげる政党である'''ナチス'''(ドイツ語:Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)ひきいる政治家の'''ヒトラー'''(Adolf Hitler アドルフ=ヒトラー)が、ドイツ国民の支持をあつめて、1932年の選挙では、ヒトラーひきいるナチスが政権を手にした。1934年にはドイツの憲法を無視して独裁体制をつくり、そして1935年にはベルサイユ条約からドイツは抜けた。ドイツの国民はヒトラーの、このような政策を支持した。ベルサイユ条約ではドイツの軍備が規制されていたが、条約をやめたのでドイツは再軍備(さいぐんび)をしていった。
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ソビエト連邦は、経済が、もとから共産主義であり、欧米型の資本主義ではなかったので、あまりソビエトは世界恐慌の影響をうけなかった。
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ドイツおよび日本の全体主義的で軍国主義的な思想や傾向は、'''ファシズム'''と言われた。元々の意味は、イタリアの政党の「国家'''ファシスト'''党」(こっかファシストとう、イタリア語: Partito Nazionale Fascista、PNF))の政治思想が言葉の由来である。このイタリアのファシスト党の政治思想が全体主義的で軍国主義的な思想だったので、このような全体主義的で侵略的な思想を'''ファシズム'''(fascism)というようになった。そして、このような軍国主義的な傾向をかかげるドイツや日本の政治家を、アメリカやイギリスなどが「'''ファシスト'''」(fascist)と批判するようになった。「ファシズム」という用語は、アメリカなどがドイツを批判するためにもちいたのであり、ドイツのナチス党自身はナチス自身の政策のことを「国家社会主義」(こっか しゃかいしゅぎ,ドイツ語: Nationalsozialismus、英語: national socialism)と言っていた。
ドイツ・日本・イタリア以外でも、似たような強権的で軍国的な国はあった。たとえばソビエトや中国である。
しかし、ソビエトと中国での軍国主義はファシズムとは呼ばれない。
ソビエトや中国の思想も、ドイツなどと似たような軍国主義的な思想だったが、のちにドイツとソビエトが対立し、また日本と中国とが対立したこともあり、またアメリカやイギリスがソビエトおよび中国と協力したので、ソビエトと中国での軍国主義はファシズムとは呼ばれないことになっていった。
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スペインや東ヨーロッパの諸国の政治でも、軍国主義的な勢力が強くなっていった。
だが歴史学では、「ファシズム」という用語は国際的にも学術用語・歴史用語として定着している。
この国際的な意味での歴史用語・学術用語として「ファシズム」の意味は、単にドイツとイタリアと日本の、世界恐慌後から第二次大戦終了までの政治の、強権的な政策や、軍備拡張的な政策、対外侵略的な政策のことを言ってるだけです。
日本国の中学や高校の学校教育での教科書も、国際的な「ファシズム」の意味と同じように、単にドイツ・イタリア・日本に限定して「ファシズム」という用語が使われている。
=== 満州事変 ===
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