「中学校社会 歴史/日中戦争」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
w:創氏改名 2014年7月28日 (月) 12:18 から、引用。
編集の要約なし
28 行
事変とはいうものの、北支事変は事実上の戦争なので、この北支事変の戦闘をもって、<big>'''日中戦争'''</big>(にっちゅうせんそう)の始まりと考える日本の学説や教科書もある。
 
では、なぜ盧溝橋に日本軍がいたかというと、義和団の乱の事後処理について1901年にむすばれた北京議定書に基づいて、日本軍などの外国軍が、この盧溝橋の周辺に駐留(ちゅうりゅう)していた。
 
 
51 ⟶ 50行目:
 
=== 第二次上海事変 ===
日本はこの大山事件を中国軍のしわざだと考え(真相は不明)、日本軍は1937年の8月に上海に海軍陸戦隊を派兵して戦闘する。この戦闘を 第二次上海事変(だいにじ シャンハイじへん) と言う。あるいは、上海戦(シャンハイせん)とも言う。
* 通州事件(つうしゅう じけん)
:(※ 通州事件は、ふつうテストには出ません。)
盧溝橋事件の三週間後の1937年7月29日に起きた事件。
北京(ペキン)の東側にある通州(つうしゅう)で、中国人の保安隊による、日本人の居留民(きょりゅうみん)や日本人の守備隊など日本人 約260名への虐殺事件があった。
 
この事件もあって、日本の世論は中国にたいして、かなり強硬的になっていく。
 
7月25日の廊坊事件(ろうぼう じけん)や、26日の広安門事件(こうあんもん じけん)は、日本の軍隊に対しての攻撃事件である。だが、この通州事件は、民間人への攻撃事件であった。
 
 
* 大山大尉殺害事件(おおやまたいい さつがいじけん)
:(※ 大山大尉殺害事件は、ふつう中学のテストには出ません。高校では、参考書などでも紹介されているので、ひょっとしたら入試に出るかもしれません。)
1937年の8月には、上海(シャンハイ)で大山勇夫(おおやま いさお)海軍中尉が殺害される事件が起きた。この事件を大山大尉殺害事件(おおやまたいい さつがいじけん)などと言う(死後、海軍大尉に特進。)
 
 
日本はこの大山事件を中国軍のしわざだと考え(真相は不明)、日本軍は1937年の8月に上海に海軍陸戦隊を派兵して戦闘する。この戦闘を 第二次上海事変(だいにじ シャンハイじへん) と言う。あるいは、上海戦(シャンハイせん)とも言う。
 
宣戦布告をしてないので「事変」というが、じっさいには、戦争の開始と同じなので、現代では、この上海事変をきっかけに、日中戦争(にっちゅうせんそう)が始まったと考える学説もある。いっぽう盧溝橋事件を日中戦争の始めと考える学説もある。
73 ⟶ 57行目:
 
もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカからの輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいている。
 
 
勘違い(かんちがい)されやすいが、上海事変は、てっきり"陸軍" が盧溝橋事件の報復攻撃として南京まで攻め落としたのだろう・・・、と勘違いされやすい。だが、じつは上海戦は、"海軍" が事件の報復として行った戦争である。
 
 
=== 南京攻略戦 ===
96 ⟶ 76行目:
1937年12月の南京事件については、いろんな説がある。
 
※ 多くの検定教科書(中学)では、「日本軍によって、女性や子どもをふくむ多数の住民や捕虜が虐殺され、国際的な非難をあびた。この事件は当時の日本国民には知らされず、戦後の極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、東京裁判)になって明らかになりました。」というような、住民虐殺を前提にしたような日本軍の作戦のような事件として紹介しており、まるで中国政府の主張を信用しているかのような記述をしている。
 
たとえば、
↓ 証拠の記述(平成23年検定版の教科書)
 
・帝国書院『社会科 中学生の歴史』 
:「南京では、兵士だけでなく、女性や子どもをふくむ多くの中国人を殺害し、諸外国から「日本の蛮行」と非難されました(南京虐殺事件)。」
 
・日本文京出版『中学社会 歴史的分野』
:「12月に占領した首都南京では、捕虜のほか、女性や子どもをふくむ多数の住民を殺害しました(南京事件)。」「当時、この事件は日本国民には知らされませんでした。戦後、極東軍事裁判に当時の調査資料が出され、その後の研究で、部隊や将兵の日記にもさまざまな殺害の事例が記されていることがわかりました。」
 
・東京書籍『新しい社会 歴史』
:「女性や子どもなど一般の人々や捕虜をふくむ多数の中国人を殺害しました。」
 
・清水書院『新中学校の歴史 日本の歴史と世界』
:「南京占領の際は、兵士のほか、捕虜や武器を捨てた兵士や老人・女性・子どもを含む非戦闘員も無差別に虐殺され、」「南京大虐殺とよばれる事件。」
 
・教育出版『中学社会歴史 未来をひらく』
:「12月に占領した首都の南京では、多数の捕虜や住民を殺害し、国際的な非難を受けました(南京事件)。」 「この事件は、当時の国民には知らされず、戦後になって明らかにされました。」
 
 
ちなみに、自由社と育鵬社の教科書では、
 
自由社『中学社会 新しい歴史教科書』
:「南京占領の際に、日本軍によって中国の軍民に多数の死傷者が出た(南京事件)。」
 
育鵬社『中学社会 新しい日本の歴史』
:「このとき、日本軍によって中国の軍民に多くの死者が出た(南京事件)。この犠牲者数などの実態については、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている。」
 
 
とある。
 
教科書を比較したところ、「南京事件での中国人の被害者数は、確定していません。」というような記述をする検定教科書は多いものの、その主張は「もっと被害者が多いかもしれない」という観点での記述である。
 
さて、教科書比較を終了しよう。
 
 
たとえば殺害された中国人については、女性や子どもをふくむ多くの一般住民が殺されたとする意見がある。(現代(2014年)の中国政府の主張)
<br>ほかの説では住民の服を着た中国軍の便衣兵(べんいへい)とよばれるゲリラ部隊が掃討(そうとう)されただけであるという意見もある。このゲリラ掃討の説では、女性や子どもにもゲリラおよびゲリラ協力者が多くいたと考える説もある。もし、ゲリラ戦としてゲリラ掃討をしただけなら、国際的に合法な通常の軍事作戦の一部であり、わざわざ国民に知らせる必要は無い。ほかにも、いろんな説があり、真相は不明である。
 
このほかにも、さまざまな説があるが、すべての説は多様すぎて紹介できないので、省略する。
 
 
142 ⟶ 82行目:
住民が殺害されたという人数には、数百人から30万人まで、いろんな説がある。
 
南京戦の陥落直後の南京での人口が、国際委員会による南京の住民の人口の推計で、およそ20万人だろう、という発表があり、さらに陥落から1ヶ月後に安全委員会が南京の人口を計ったところ25万人にふえている。
 
なので、30万人の住民殺害は原理的に不可能なので誇張であり、たとえ住民殺害の事件があっても、数百名〜数千名ぐらいか、多く見つもっても中国軍人と中国住民の死者数を合わせても数万人の人数だろう、という説が日本では強い。
 
なお、ゲリラ部隊については、ゲリラ部隊があると、ゲリラとまちがえられた民間人に危害がおよぶという観点から、国際法ではゲリラは保護されないということが、1899年に国際的に決まったハーグ陸戦条約(ハーグ りくせん じょうやく)に明記されている。なので、戦争時にゲリラを殺害するのは正当な戦闘行為である。
 
:(※ ハーグ陸戦条約は、ふつうテストには出ません。)
 
ただしゲリラと間違えられた住民にも、公正な裁判を受けることで無実をうったえる権利がある。
 
このようにゲリラ戦は、民間人をまきこんでしまうという危険があるので、ハーグ条約で禁止されているのである。
 
 
ともかく、このような、いろんな事情があるので、くわしい被害者の人数については、テストでは出題されないだろう。もし、「南京事件でころされた中国人の人数を書け」という問題を出題する教員がいれば、教員の見識が、うたがわれるだろう。
 
 
; 検定教科書(高校)での近年の記述動向
: 近年の教科書表記では、高校教科書の山川出版社(『詳説日本史』)と東京書籍が「南京事件」<ref>石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦ほか『詳説日本史』山川出版社 2004年(高等学校地理歴史科用、2002年文部科学省検定済)p.330</ref><ref>東京書籍2006年p.188</ref>、帝国書院が「南京大虐殺」<ref>帝国書院2006年</ref>、清水書院が「南京大虐殺事件」<ref>清水書院2006年</ref>、山川出版社(『詳説世界史』)と日本文教出版が「南京虐殺事件」<ref>江上波夫・山本達郎・林健太郎・成瀬治ほか『詳説世界史・改訂版』山川出版社 2001年(高等学校地理歴史科用、1997年文部科学省検定済)p.310</ref><ref>日本文教出版2006年</ref>と各教科書が多様な表記を行っている。なお、大阪書籍の2005年の教科書では「被害者数については、さまざまな調査や研究が行われていて確定されていません」と脚注に表記されている。
 
: 2010年に報告書が公開された外務省の日中歴史共同研究の日本語論文において「南京虐殺事件」の表現が使用された。
 
<references/>
 
 
この日中戦争では、ソビエトやアメリカ、イギリス、フランスは、中国に軍事物資などを援助していて、中国側を支持していた。
この段階では、まだ、アメリカ兵と日本兵との戦争は起きていない。
 
アメリカは、おもに中国の国民党を援助した。アメリカは援助にとどまり、まだ、戦闘には参加していない。
いっぽう、ソビエトは、おもに中国の共産党を援助した。
 
アメリカは、おもに中国の国民党を援助した。いっぽう、ソビエトは、おもに中国の共産党を援助した。
 
南京攻略後には、日中のあいだでドイツを仲介(ちゅうかい)にした和平のための和平工作もあったが(「トラウトマン工作」という。中学では定期テストにも入試にも出ないはず。)、日中両国の両国内での強硬派の意見もあり和平は守れれずに、日中戦争は続いていく。
 
=== 日本の戦時体制 ===
189 ⟶ 103行目:
=== 植民地での戦時体制 ===
朝鮮では、朝鮮人の名前を日本風の名前に変える'''創氏改名'''(そうし かいめい)が行われた。
日本は、朝鮮人の日本への同化政策の立場から、朝鮮人から朝鮮名をうばい、日本人のような氏名を名乗るよう強制した。
 
創氏制度は王族など特殊な例外を除き、全朝鮮人民に法規で適用されたものであった。しかし金(キム)や朴(パク)などの朝鮮名から、伊藤や井上など日本風の名への改名が強制であったかについては論争がある
 
*強制説
朝鮮総督府が皇民化政策の立場から、朝鮮人から朝鮮名を奪い、日本人のような氏名を名乗るよう強制したとする説。 '''日本の歴史教科書のほとんどが、強制説の立場に沿った記述をしている。''' 韓国の圧倒的多数の論者が強制説を主張しており、また北朝鮮の政府見解や、日本ではいわゆる「進歩的な」歴史学者や評論家、知識人に支持されている説。
 
*自発的受容説
国内外における日本内地人との差別を回避するために、自発的に創氏改名を受け入れたとする説。つまり、朝鮮名のままだと朝鮮人は商売がやりにくかった、とする説。