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== パーキンソンの法則 ==
人は重要度の低いことに熱を上げがち
 
== いわゆるメインカルチャーとサブカルチャーの問題について ==
「サブカルww」的な思考様式自体が実はサブカル的、ヲタク的なものなのではあるまいか。
 
「サブカルww」という感情が生まれる原因はいわゆる「恥」の精神やタテマエ的なものもあるが、結局は自分が俗物であることに対する引け目から来るのではないかと思う。少なくとも本人がメインカルチャーに通じた結果生まれたものではないことは間違いないように思われる。
 
何故かと思うのなら実際のメインカルチャーの世界を覗いてみればいい。そこにはただ道があるのみである。個人的な感覚ではあるが、メインカルチャーの側からすると「メイン対サブ」という感覚はあまりない。美術館で絵(もちろん、所謂ファイン・アートである)を見ているときに「これはマンガより優れている!」などと考えたことはないし、論語を読んでいるときに「これはサブカルの…!」などとわざわざ考えることもない。ただ学び、観賞し、味わうのみである。
 
また知的・文化的レベルの高い人間は多くの場合、他者を理解したり他社と対話する能力が高く、また品性が備わっているため、わざわざ対立などしないのである。ノーベル賞受賞者が公の場で「サブカルww」などと言っているのを聞いたことがあろうか。要はそういう事である。
 
そもそも現実社会において、メインとサブは必ずしも対立するものではないように思われる。明治や大正の時代ならともかく、この21世紀にメインカルチャーだけで生活しているものがいようか。かなり不可能に近いのではないか。そもそも貴族でもない大衆の我々が大衆文化に親しむのは当然の事であって、所詮大衆の一員でしかないものが自らの文化を攻撃して悦に入るのはある意味滑稽な行動である。
 
なぜこんなことを考えるかというと、この「サブカルww」という感覚がしばしば正常な思考を妨げるからである。人間というのは弱いもので、少し目の前に余計なものをぶら下げられるだけで簡単に思考のピントがずれてしまう生き物である。また、ウィキペディアにおけるこの手の議論が信用ならないからである。
 
「メインかサブか」に関する個人的な基準はあるが、
結局すり合わせる事が出来ないのなら、
その時間を使って出典をつけ、記事を改良していくのみである。