「高等学校世界史探究/南アジアの古代文明」の版間の差分

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アショーカ王
ナーランダー僧院
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== 気候 ==
インドの東南の気候は、雨季と乾季のある、'''モンスーン気候'''である。モンスーン(monsoon)とは季節風のこと。現代のヒンドゥー教の神に雷神インドラがいるのは、つまりインドの気候では雷雨が起こるということである。
 
インドの北部と南部で気候が違う。北部は乾燥しており、雨季と乾季の差が、はっきりしている。南部は、年間をつうじて温暖である。
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前2世紀ごろ、マウリヤ朝は衰退しており、北西インドに、ギリシア人がパクトリア地方から侵入した。
つづいてイラン系遊牧民が北西インドに侵入した。
 
1世紀にイラン系のクシャーン人が'''クジャーナ朝'''(Kushana)をたてた。
2世紀の'''カニシカ王'''(Kanishka)の時代が最盛期。
 
ローマとの交易で儲けた。
 
 
起源1世紀の前後、仏教で、新しい運動が起きた。それまでの仏教は、出家と修行によって、悟りを開くものだったが、新しい仏教は、個人的な行為にすぎない修行よりも、菩薩(ぼさつ)を信じる心と、人々の救済こそが重要であると説き、これを'''大乗'''(だいじょう)と呼んだ。「大乗」とは、大きな乗り物という意味である。
 
いっぽう、今までの修行を中心とした仏教は、修行者個人の悟りという個人的利益を求めるにすぎないとして、旧来の仏教を批判し、これを「小乗」(しょうじょう)と呼んで、さげすんだ。
 
クシャーナ朝のカニシカ王は、大乗仏教を保護した。
 
インドでは、はじめ、ブッダを像にすることは恐れ多いと考えられていたが、しかしヘレニズム文化のギリシア彫刻などの影響を受けて、インドで仏像が作られるようになった。
 
仏像などの美術が、ガンダーラを中心に広がったので、この時代のインド美術を'''ガンダーラ美術'''という。
 
南インドでは、サータヴァーハナ朝が成立した。この王朝は、北インドから、多くのバラモンをまねいて、北インドの文化も取り入れた。
 
== グプタ朝 ==
4世紀前半にマガダ地方でシャンドラグプタ1世が'''グプタ朝'''をたてた。第3代の'''チャンドラグプタ2世'''のときに北インドの大半を支配し、最盛期になった。
また、グプタ朝の公用語は、バラモンの言葉である'''サンスクリット語'''(Sanskrit)を公用語とした。
 
[[File:Statuette of dancing Shiva, the Nataraja.jpg|thumb|踊るシヴァ神の像]]
このグプタ朝の時代に、ヒンドゥー教が広まった。ヒンドゥー教は、バラモン教に民間信仰が融合して、バラモン教が再興した宗教であると考えられている。
 
ヒンドゥー教は多神教である。ヒンドゥー教の神では、破壊と想像の神であるシヴァ神(Siva)や、s世界・宇宙を保持する神であるヴィシュヌ神(Visnu)などをまつっている。
 
ヒンドゥー教は特定の教義や聖典を持たない。
 
 
文学では、この時代に、二大叙事詩『'''ラーマーヤナ'''』(Ramayana)『'''マハーバーラタ'''』(Mahabharata)がまとめられ、ほぼ現在に近い内容になった。
 
ラーマーヤナの内容は、王子ラーマと、その妻シーターとの物語。
 
また、ヴァルナの規範について『'''マヌ法典'''』がまとめられた。
 
自然科学では、数学では'''ゼロの概念'''や10進法が、この時代のインドで生み出された。この数字の表記法をもとにインド数字が生み出され、そのインド数字はのちにアラビアに伝わり、アラビア数字のもとになり、それがヨーロッパに伝わったのが、今日のアラビア数字のもとである。このような、この時代のインドの数学によって、のちの時代の世界の数学が大きく進歩した。
 
詩人カーリダーサ(Kalidasa)により戯曲『シャクンタラー』(Shakuntala)がつくられた。
 
[[Image:Nalanda University India ruins.jpg|right|300px|thumb|ナーランダー僧院]]
この時代は、仏教もさかんであった。仏教も学べる'''ナーランダー僧院'''が、5世紀に建設された。ナーランダー僧院が、インドでの仏教研究の中心地になった。
のちの時代に、中国の唐の僧である玄奘(げんじょう)が留学して仏教を学んだ学校が、このナーランダー僧院である。