「高等学校世界史B/秦漢帝国」の版間の差分

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ページの作成:「== 秦の統一 == 戦国時代を統一した国は、'''秦'''(しん)である。秦は'''法家'''(ほうか)の思想を採用し、法家の'''李斯'''(...」
 
マルクス=アウレリウス=アントニウス
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秦は、法家的な思想にもとづき、官僚制や法治を徹底させるため、中央から各地に官僚を派遣する'''群県政'''(ぐんけんせい)を全土に施行した。
また秦の始皇帝は、度量衡(どりょうこう)や貨幣や車軌(しゃき、意味:車幅)を統一した。貨幣は半両銭(はんりょうせん)に統一した。
 
標準計量器として、おもさの標準として青銅製のおもりの銅権や、体積の標準として陶量・銅量がつくられた。
 
いっぽう、法家以外の思想は弾圧・統制し、秦は、医薬・占い・農業などの実用書を除いて民間の書物を焼いて、儒者などを穴埋めにして処刑にするなどの'''焚書・坑儒'''(ふんしょ こうじゅ)を行った。
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秦を滅亡に導いた最初の反乱は、陳勝(ちんしょう)と呉広(ごこう)による農民反乱であった。
は「'''王侯将相(おうこうしょうしょう)、いずくんぞ種(しゅ)あらんや'''」という言葉を残しており、戦国時代以来の実力主義の風潮が表現されている。
 
== 漢 ==
=== 漢 ===
秦の滅亡後、各地で諸侯が争った。その中でも、二大勢力として、農民出身の'''劉邦'''(りゅうほう)と、楚の名門貴族出身の'''項羽'''(こうう)とが、争った。最終的に、劉邦が中国を統一する。項羽は死亡する。
 
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そして劉邦は、新しい首都として、'''長安'''(ちょうあん)を都とした。(なお、それ以前の秦の時代の都は咸陽(かんよう)であった。)
 
漢は、当初は、諸王に領地などを認める封建制を、中央官僚派遣をとおして皇帝が間接的に支配する群県制とともに併用した。この封建制と群県制との併用を'''群国制'''(ぐんこくせい)という。(おそらく、秦の中央集権化の失敗を参考にして、漢は当初は中央集権をあきらめたのだろう。)
 
しかし漢は、だんだんと諸王の権力を剥奪して削減させていき、最終的に群県制とほぼ同じ制度になっていった。このような権力剥奪に抵抗する呉楚七国の乱が起きたが、漢によって鎮圧され、漢は中央集権体制へとなっていった。
 
[[File:Flying Horse, East Han Dynasty.Bronze. Gansu Provincial Museum.jpg|thumb|right|250px|銅奔馬(どうはんば)。匈奴との戦いのため、大量の馬が必要とされたのだろう。後漢の墓から、このような馬の像が、大量に出土している。武帝は、名馬とれた汗血馬(かんけつば)を欲しがった。汗血馬は、西域の大宛(だいえん)に産する。]]
前2世紀後半の'''武帝'''(ぶてい)の時代に、漢は、北方の匈奴(きょうど)を撃退した。漢は、匈奴を撃退するための同名を外国と結ぶため、中央アジアのタリム盆地の大月氏(だいげつし)に外交の使者を派遣した。'''張騫'''(ちょうけん)が、大月氏への使者となった。この中央アジアの地域のことを、中国から見て西になるので、西域(さいいき、せいいき)という。
 
=== 漢による外征 ===
前2世紀後半の'''武帝'''(ぶてい)の時代に、漢は、北方の'''匈奴'''(きょうど)を撃退した。漢は、匈奴を撃退するための同名を外国と結ぶため、中央アジアのタリム盆地の大月氏(だいげつし)に外交の使者を派遣した。'''張騫'''(ちょうけん)が、大月氏への使者となった。この中央アジアの地域のことを、中国から見て西になるので、西域(さいいき、せいいき)という。
 
漢は、西域のフェルガナ地方まで出兵した。
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このころから、豪族が各地で影響力を持つように、なっていった。
 
=== 新と後漢 ===
武帝の死後、(皇后の親族である)外戚(がいせき)や、(後宮に仕える)宦官(かんがん)が権力をにぎるようになった。
 
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=== 漢代の文化 ===
漢のはじめごろは、法家が主流だった。しかし、武帝の時代に、儒学が官学とされた。武帝は、儒教の官僚に'''董仲舒'''(とう ちゅうじょ)を信任し、五経博士(ごきょうはかせ)を置かせた。
 
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これを受け、後漢の'''班固'''(はんこ)が『'''漢書'''』(かんじょ)を編纂(へんさん)した。
 
=== 外交 ===
秦(しん)の発音が、英語のchina「チャイナ」などヨーロッパでの「中国」を表す語の発音のもとになったと考えられている。
 
* ローマとの外交
後漢では、ローマ帝国の存在が知られており、大秦(だいしん)と呼んだ。使者を送った。班超(はんちょう)は、使者として甘英(かんえい)をローマに送った。
後漢に、「'''大秦王安敦'''」(だいしんおうあんとん)によって中国へ派遣された使者が、来ている。
 
大秦王安敦とは、ローマ皇帝 マルクス=アウレリウス='''アントニウス''' のこととされる。
 
* 日本との外交
[[File:King of Na gold seal.jpg|260px|thumb|left|金印(きんいん)。漢委奴国王印。 国宝。福岡市博物館蔵。1辺は2.3cm、重さは109g。材質は金。福岡県の志賀島(しかのしま)で1784年(江戸時代)に出土。]]
[[File:King of Na gold seal imprint 1935.jpg|thumb|right|金印の印文。「漢委奴国王」と刻まれている。]]
歴史書『後漢書』(ごかんじょ)によると、1世紀半ばに、倭(わ)(=日本)の王が、漢に使いを送り、光武帝から金印(きんいん)などをあたえられたという。
 
金印の実物は、江戸時代に発見されている。江戸時代に、現在で言う福岡県の<span style="font-size: large;">志賀島</span>(しかのしま)で、1784年に発見され、金印には文字が刻まれており、「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)と、漢字が刻まれている。
 
金印は、形式上は、受け取った者が、皇帝に従うことになる。この金印のような中国による外交が、のちの唐代以降の冊封体制(さくほうたいせい)のきっかけだと考えられている。