「高等学校世界史B/唐と東アジア」の版間の差分

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ページの作成:「== 隋 == 589年に南北朝を'''隋'''(ずい)が統一した。 581年に、隋の'''楊堅'''(ようけん)(= 文帝)は大興城(だいこうじょ...」
 
9世紀後半に塩の密売人の黄巣(こうそう)による'''黄巣の乱'''(こうそうのらん、875〜884)が起きた。
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=== 宗教 ===
[[File:Xuanzang w.jpg|thumb|玄奘(げんじょう)。彼の旅行記の『大唐西域記』(だいとうさいいきき)は、当時の西域・インドの状況を伝えている。]]
宗教では、仏教と道教が盛んになった。
 
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また、日本の正倉院(しょうそういん)には、ペルシアやインドから唐を経由して日本に伝わってきた工芸品などが、宝物として保管されている。
 
== 唐の衰退と滅亡 ==
7世紀末、高宗の皇后であった'''則天武后'''(そくてんぶこう)が帝位につくと、科挙官僚を積極的に登用した。これによって、古い家柄の貴族の影響力が弱まり、新興の商人層の影響力が強まった。なお、則天武后は国号を「周」(しゅう)としたが、のちの代に「唐」に戻された。
 
則天武后は、恐怖政治を行い、政治を混乱させた。則天武后の死後、8世紀はじめに'''玄宗'''(げんそう)が即位した。玄宗は政治改革を目指したが、うまくいかなかった。人口の増加や、貨幣経済などの発達といった商業の変化により、農民のあいだに貧富の格差が大きくなり、没落する農民が増えていた。いっぽう、貴族や振興地主の荘園が広がっていった。
 
このような理由もあり、均田制・租庸調制がうまくいかなくなった。
 
 
また、周辺民族に独立の動きが出て来て、それを軍事力でおさえるための農民の府兵制の負担も重くなり、府兵制がうまくいかなくなったので、府兵制のかわりに傭兵をもちいる'''募兵制'''(ぼへいせい)が採用された。
その軍団の指揮官として、'''節度使'''(せつどし)が、辺境に配置され、防備した。
 
玄宗の晩年に、'''楊貴妃'''(ようきひ)の一族が実権をにぎり、それに反発する節度使の安禄山(あんろくざん)とその武将の史思明(ししめい)が、大規模な反乱を起こした('''安史の乱'''、あんしのらん、755〜763)。唐は、この反乱の鎮圧に8年かかり、ウイグルの助けを得て、鎮圧した。
 
有力な節度使は、自立の動きを目指した('''藩鎮'''、はんちん)。また、ウイグルや吐蕃(とはん)に中央アジアの領土をうばわれ、唐の領土は縮小した。
 
唐は、乱後の財政再建のため、税の徴収が必要だが、租庸調がうまくいかなくなってきたので、かわりに、現実に所有してい土地に課税する'''両税法'''(りょうぜいほう)を780年に導入した。
 
両税法は、夏・秋に徴税する。(※ 一つの土地から、夏と秋の年2回の徴収をするか、それとも夏か秋かの片方だけから年1回の徴税をするのかは、諸説あり、検定教科書によっても説明が違う。)
 
 
また唐は、塩の専売を行って財政再建をしようとしたが、これが民衆の不満をまねき、9世紀後半に塩の密売人の黄巣(こうそう)による'''黄巣の乱'''(こうそうのらん、875〜884)が起きた。そして、この乱がきっかけになり、反乱が全土に広がり、唐は衰退していき、907年、唐は節度使の'''朱全忠'''(しゅぜんちゅう)によって滅ぼされた。
 
この後、中国は「五代」(ごだい)という分裂時代に入る。