「高等学校世界史B/唐と東アジア」の版間の差分

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白村江の戦い
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書道では、顔真卿(がんしんけい)が出た。
 
=== 日本との関係 ===
日本からは、遣隋使や遣唐使が、7世紀ごろに中国に送られてきた。そして、遣隋使・遣唐使は、律令や仏教などの中国文化を学んで、日本に持ち帰り、また、日本に律令制度を取り入れた。そして日本は、律令国家体制を築いていった。日本の班田収授法(はんでん しゅうじゅのほう)は、隋唐の均田制を手本にしている。
 
また、日本の正倉院(しょうそういん)には、ペルシアやインドから唐を経由して日本に伝わってきた工芸品などが、宝物として保管されている。
 
== 唐の周辺諸国 ==
新羅(しらぎ)は、唐と連合し、百済、高句麗を滅ぼす。
 
新羅は、唐を参考に官僚制を導入したが、政治の基本制度は'''骨品制'''(こっぴんせい)という身分制度であった。新羅は仏教を保護した。
 
高句麗が滅ぶと、その流れをくむ人々が、中国東北部に'''渤海'''(ぼっかい)を建てた。
 
なお、新羅が百済を滅ぼす際、日本は百済に援軍を送っており、663年の'''白村江の戦い'''(はくそんこう の たたかい、はくすきのえ の たたかい)で、日本・百済の連合軍が、唐・新羅の連合軍と戦っている。この白村江の戦いで、日本・百済は大敗した。
これらの唐と日本との戦いのため、遣唐使は、一時、停止された。
 
7世紀後半、日本と、唐・新羅との友好は回復した。
 
== 唐の衰退と滅亡 ==