「高等学校世界史B/唐と東アジア」の版間の差分

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白村江の戦い
そのウイグルも、9世紀なかばにトルコ系のキルギス(Kirghiz)に覇権をとって代わられた。
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しかし、農民の負担が重く、'''高句麗遠征'''の失敗をきっかけに、そのため各地で反乱が起こり、隋は618年に滅んだ。
 
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== 唐 ==
隋は618年に滅ぶ。そのいきさつは、軍閥の'''李淵'''(りえん)が挙兵して勢力を伸ばし、長安に入り、618年に唐を建て、長安を都とした。
 
2代目の'''太宗'''(たいそう)は中国を統一した。さらに東突厥(とっけつ、とっくつ)を服属させた。太宗の統治は素晴らしかったとされており、「'''貞観の治'''」(じょうがん の ち)と言われている。つづく3代目の'''高宗'''(こうそう)は、西突厥も服属させ、さらに朝鮮半島方面にも進出し、百済・高句麗をやぶった。
 
こうして唐は、ユーラシア東部の大帝国となった。
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=== 宗教 ===
[[File:Xuanzang w.jpg|thumb|玄奘(げんじょう)。彼の旅行記の『大唐西域記』(だいとうさいいきき)は、当時の西域・インドの状況を伝えている。なお、この『大唐西域記』は、のちの明(みん)時代の『西遊記』(さいゆうき)のモデルになった。そして、『西遊記』の三蔵法師(さんぞうほうし)のモデルになった人物が、この玄奘だろうというのが通説である。]]
宗教では、仏教と道教が盛んになった。
 
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仏教のなかから、'''禅宗'''や'''浄土宗'''などの宗派が出来ていった。
 
[[ファイル:Nestorian stele 1.jpg|thumb|300px|left|大秦景教中国碑]]
西方との交易によって、ゾロアスター教(祆教、けんきょう)・マニ教・ネストリウス派キリスト教('''景教'''、けいきょう)・イスラームなどが、唐に伝来し、それらの寺院も造られた。
 
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=== 人文・文芸 ===
詩が盛んになった('''唐詩''')。'''李白'''(りはく)や'''杜甫'''(とほ)や'''白居易'''(はくきょい)などの詩人が出た。
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== 唐の周辺諸国 ==
=== 日本と朝鮮半島 ===
[[File:Bulguksa Dabotap.JPG|thumb|新羅の仏国寺(ぶっこくじ)の多宝塔(たほうとう)。韓国、慶州。]]
新羅(しらぎ)は、唐と連合し、百済、高句麗を滅ぼす。
 
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これらの唐と日本との戦いのため、遣唐使は、一時、停止された。
 
7世紀後半、日本と、唐・新羅との友好は回復した。9世紀に日本は遣唐使を廃止する
 
=== チベット ===
7世紀後半、チベット高原で、チベット人の'''ソンツェン=ガンポ'''(Srong btsan sgam po)が、統一国家として吐蕃(とばん、Tubod)を建て(これがチベット)、ラサを都とした。
 
吐蕃は唐と抗争し、長安を一時占領し、またウイグル帝国とも抗争した。
 
インド文字をもとにチベット文字がつくられた。宗教では、'''チベット仏教'''(ラマ教)が起こった。チベット仏教の内容は、インドから伝わった大乗仏教が、チベットの民間信仰と混ざったものである。
 
=== モンゴル高原と突厥・ウイグル ===
隋唐の前の時代は、柔然(じゅうぜん)がモンゴル高原の覇者だった。しかし6世紀なかば、トルコ系の遊牧国家の突厥(とっけつ、とっくつ)が、モンゴル高原の覇者となる。
 
突厥は、西方でエフタルと争った。(※ エフタルの民族系統は今もなお不明であり、諸説ある。)
突厥は、'''ソグド人'''(Sogd)を外交・貿易に用い、またビザンツ帝国と外交をしていた。
6世紀末の中国が隋だった時代、突厥は東西に分裂した。
 
8世紀なかば(744年ごろ)に、トルコ系の'''ウイグル'''(Uighur)が東突厥を滅ぼした。
 
唐が安史の乱(あんしのらん、755〜763)になると、唐はこの反乱の鎮圧に8年かかり、ウイグルの助けを得て鎮圧した。
 
突厥・ウイグルでは、独自の文字がつくられた。
 
そのウイグルも、9世紀なかばにトルコ系のキルギス(Kirghiz)に覇権をとって代わられた。
 
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== 唐の衰退と滅亡 ==
[[File:A Tang Dynasty Empress Wu Zetian.JPG|thumb|則天武后(そくてん ぶこう)]]
7世紀末、高宗の皇后であった'''則天武后'''(そくてんぶこう)が帝位につくと、科挙官僚を積極的に登用した。これによって、古い家柄の貴族の影響力が弱まり、新興の商人層の影響力が強まった。なお、則天武后は国号を「周」(しゅう)としたが、のちの代に「唐」に戻された。
 
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このような理由もあり、均田制・租庸調制がうまくいかなくなった。
 
:なお則天武后の死後、いきなり玄宗が皇帝になったわけではなく、まず則天武后の死後に、中宗(ちゅうそう)がいったん復位したが、皇后・韋(い)によって毒殺された。則天武后と韋の、一連の女性が政治に介入しておきた事件を「武韋の禍」(ぶいのか)という。