「高等学校世界史B/ヨーロッパ封建社会の動揺」の版間の差分

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1302年にフィリップス4世は聖職者・貴族・平民からなる'''三部会'''(さんぶかい、Etats generaux)をひらき
 
ヘンリ7世(Henry VII)が1485年にテューダー朝(Tudor)をひらき
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== 百年戦争 と ばら戦争 ==
=== 百年戦争 ===
[[File:Joan of arc miniature graded.jpg|thumb|ジャンヌ=ダルク。15世紀写本の飾り絵より。]]
[[File:Joan of arc miniature graded.jpg|thumb|ジャンヌ=ダルク。15世紀写本の飾り絵より。ジャンヌは最終的にイギリス側に捕らえられ、異端として火刑で処刑された。異端の理由は、神の声を教会を通さずに直接聞いた、男装した、などというのが、異端の理由である。要はジャンヌの行為は、教会の既得権益を侵害したのである。その後、フランス側によってジャンヌの名誉回復がなされ、今日のキリスト教ではジャンヌは聖人として神格化されている。]]
 
毛織物産地として有名な'''フランドル地方'''への利権をめぐって、イギリスとフランスが対立をした。
なおフランドル地方の場所は北フランスにある。
 
イギリス国王'''エドワード3世'''(Edward III)は、母がカペー家出身であることからフランス王位継承権を主張し、これをきっかけに百年戦争が始まった。
 
戦局ははじめイギリス軍が優勢であったが、しかし最終的にイギリスは敗れる。
フランスで'''シャルル7世'''(Charles VII)が即位したころはフランスは降伏寸前であった。
 
このころ、1429年に神のお告げを聞いたと信じる、農民の娘'''ジャンヌ=ダルク'''(Jeanne d′Arc)が現れ、英雄視された。(ジャンヌ=ダルクは実在の人物)
フランス側の言い伝えでは、ジャンヌがフランス軍を先頭で率いて、要衝オルレアンの防衛に成功し、それから、つぎつぎと敵を破ったという。
 
さて現実では、このオルレアンの防衛戦以降、フランス軍は勢いを盛り返し、フランスに侵入したイギリス軍を破り、最終的にイギリス軍をフランスから追放し、そして戦争は1453年にフランスの勝利で終わった。
 
この百年戦争の結果、イギリスはわずかに'''カレー'''市(Calais)を残して、大陸の所領を失った。
 
フランスでは、この戦争の結果、諸侯・騎士が没落した。いっぽう、シャルル7世は常備軍を設置して、中央集権化が強まった。またフランスでは、官僚制も強まった。
 
=== バラ戦争 ===
いっぽう、イギリスでは、百年戦争ののち、イギリス国内での王位継承権をめぐっての内乱で、'''ランカスター家'''(Lancaster)と'''ヨーク家'''(York)が争った。これを'''バラ戦争'''という。
 
イギリスの諸侯・騎士は両派に分かれた争い、結果的に諸侯・騎士は没落した。そして結局、この内乱をしずめた'''ヘンリ7世'''(Henry VII)が1485年に'''テューダー朝'''(Tudor)をひらき、王権に反対する勢力を処罰するための'''星室庁'''(せいしつちょう)裁判所をウェストミンスター宮殿の「星の間」(ほしのま)に設置し、イングランドは絶対王政へと向かった。
 
こうして王権については、イギリス・フランスの両国とも王権が強化され中央集権化へと向かい、両国とも絶対王政へと向かっていった。