「高等学校世界史B/ヨーロッパ封建社会の動揺」の版間の差分

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ヘンリ7世(Henry VII)が1485年にテューダー朝(Tudor)をひらき
'''ジャックリーの乱'''
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さらにフィリップス4世はローマ教皇ポニファティウス8世と対立したが、1302年にフィリップス4世は聖職者・貴族・平民からなる'''三部会'''(さんぶかい、Etats generaux)をひらき、その支持を得て、教皇を屈服させ、王権をさらに強化した。
 
== 貨幣経済の進展と政治権力の変化 ==
14世紀ごろから、貨幣経済がヨーロッパに行き渡る。すると、それまでの生産物を中心とした荘園では、経営が行き詰まるので、貨幣で地代を徴収する領主が出て来た。
また、農民が市場で生産物を売るなどして、貨幣をたくわえる農民も出て来た。
このようなことがあり、農民の地位が高まった。
 
そして、貨幣を調達するには、優秀な農民を集めなければならず、なので領主は農民を待遇を改善するため、農奴(のうど)の扱いを改善しなければならなくなり、結果的に農奴(のうど)という奴隷的な扱いを廃止し、農民が自由市民になっていった。
 
とくにイギリスでは、貨幣経済の進展もあってか、この農奴解放の現象が顕著で、'''ヨーマン'''(yeoman)と言われる'''独立自営農民'''が誕生した。
 
いっぽう、各国各地の領主の中には、社会の変化に対応できず、落ちぶれていく領主も出て来た。
 
14世紀に入ると、ヨーロッパでは人口が減少し始める。原因としては、通説では、気候の寒冷化、'''ペスト'''(黒死病)の流行、戦乱などが挙げられる。
 
さて、人口がヨーロッパでは減少したことにともない、ヨーロッパでは人手不足のため労働力が不足した。
にもかかわらず、領主の中には改革をせず重税で当面の問題解決しようとした領主もいたり、また当時あった戦争の戦費の負担を農民に押し付ける国王がいたりしたので、ヨーロッパでは一揆が増えた。
 
[[File:The Peasants' Revolt - Froissart, Chroniques de France et d'Angleterre, Book II (c.1460-1480), f.165v - BL Royal MS 18 E I.jpg|thumb|300px|ワット=タイラーの乱<br />左手前がワット=タイラー。中央馬上が思想的指導者の聖職者ジョン=ポール。ジョン=ポールは「アダムが耕し、イブがつむいだとき、だれが領主であったか」といい、封建制を批判した。最終的に、ワット=タイラーは殺害され、ジョン=ポールは処刑された。]]
14世紀後半のフランスの'''ジャックリーの乱'''や、イギリスの'''ワット=タイラーの乱'''が、農民の一揆として有名である。
どちらの一揆とも鎮圧されたが、しかし貨幣経済に対応できない領主が世間には多かったようで、領主の多くは落ちぶれていった。
 
また、この頃、王権の強大化もあり、国王や有力者に領地を没収させる領主もあり、領主の多くはますます厳しい状況になった。
 
また、14世紀ころから火砲が誕生し、戦争の戦術が変わっていくと、むかしながらの一騎打ちを花形としていた騎士の立場はきびしくなり、騎士の没落の原因になった。
 
そして、没落した旧来の領主によって手放された土地を、都市の大商人などが購入して、大商人などが新しい領主になった。
 
こうして、荘園制を基盤とする封建社会は、しだいに解体していき、かわりに貨幣経済と絶大な王権を基盤とする社会になっていく。
 
== 百年戦争 と ばら戦争 ==