「高等学校世界史B/ヨーロッパ封建社会の動揺」の版間の差分
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'''ジャックリーの乱''' |
フス戦争 |
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こうして、荘園制を基盤とする封建社会は、しだいに解体していき、かわりに貨幣経済と絶大な王権を基盤とする社会になっていく。
== 教皇権の衰退 ==
各国で王権が強まったことや、十字軍の失敗により、ローマ教会の権威は低下した。
その結果、各国の国王は教会からの破門をおそれずに、教会に従わなくなった。
フランスでは、聖職者への課税をめぐって、聖職者に課税しようとする国王フィリップス4世と、課税に反対していた教皇ポニファティウス8世が対立した結果、1303年に国王派が教皇を監禁してしまう'''アナーニ事件'''が起きた。
教皇は解放されたが、まもなく死去した。
1309年には、教皇庁を強制的に移転させ、南フランスの'''アヴィニヨン'''(AVignon)に移転させた。これを、古代のバビロン捕囚にたとえて、「'''教皇のバビロン捕囚'''」(1309〜77)という。その後、教皇庁がローマにもどると、今度はフランスは対抗して、アヴィニヨンに別の教皇をたてた。こうして、ヨーロッパで複数の教皇が並び立った。これを'''教会大分裂'''(1378〜1417)または'''大シスマ'''という。
これにより、各地で教会を改革しようという運動が起きた。
いっぽう教会は、カトリックの教えに逆らうものを異端審問や魔女狩りなどで処刑していった。
14世紀後半、イギリスの'''ウィクリフ'''(Wycliffe)が教会の改革をとなえ、聖書の教えにもとづくべきとし、当時の教会は聖書から外れていると批判した。
ベーメンの'''フス'''(Huss)も、ウィクリフの説に賛同して、教会を批判した。
しかし教会は、かれらの説を認めず、'''コンスタンツ公会議'''(1414〜18)を開いて、ウィクリフとフスを異端と認定し、フスを火刑に処し、異端問題を終結させようとした。
しかし、ベーメンではフス派の反対運動の戦争('''フス戦争''')が起きるなど、教会から人心は離れていき、教皇権の権威は戻らなかった。
これが、近世初頭の、ルターなどによる宗教改革につながっていく。
== 百年戦争 と ばら戦争 ==
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