「高等学校世界史B/ヨーロッパ封建社会の動揺」の版間の差分

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フス戦争
アルビジョワ十字軍「すべてを殺せ。」
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12世紀末に'''フィリップス2世'''(Phillippe II)は、イギリス王ジョンと戦い、ジョンに勝ち、フランス国内の旧イングランド領の大半をうばう。
 
さらにルイ9世(Louis IX)が、'''アルビジョア十字軍'''をもちいて、南フランスの諸侯を制圧し、アルビやベジエなどの街を攻撃し、南フランスを併合した。ルイ9世はアルビジョア十字軍の出兵のため、異端'''カタリ派'''の制圧をかかげていた。
 
:教会使節はベジエのすべての住民の虐殺を命じたという。もし殺した相手が異端なら地獄に落ち、殺した相手がカトリックなら天国に行くから、殺しても問題ない、というような論理で、住民虐殺を正当化し、「すべてを殺せ。」と主張したという。
さらにフィリップス4世はローマ教皇ポニファティウス8世と対立したが、1302年にフィリップス4世は聖職者・貴族・平民からなる'''三部会'''(さんぶかい、Etats generaux)をひらき、その支持を得て、教皇を屈服させ、王権をさらに強化した。
 
さらにその後、フィリップス4世はローマ教皇ポニファティウス8世と対立したが、1302年にフィリップス4世は聖職者・貴族・平民からなる'''三部会'''(さんぶかい、Etats generaux)をひらき、その支持を得て、教皇を屈服させ、王権をさらに強化した。
 
== 貨幣経済の進展と政治権力の変化 ==
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その結果、各国の国王は教会からの破門をおそれずに、教会に従わなくなった。
 
フランスでは、聖職者への課税をめぐって、聖職者に課税しようとする国王'''フィリップス4世'''と、課税に反対していた教皇ポニファティウス8世が対立した結果、1303年に国王派が教皇を監禁してしまう'''アナーニ事件'''が起きた。
 
教皇は解放されたが、まもなく死去した。
[[ファイル:Avignon, Palais des Papes by JM Rosier.jpg|thumb|right|480px|アヴィニョン教皇庁(全体像)]]
 
1309年には、教皇庁を強制的に移転させ、南フランスの'''アヴィニヨン'''(AVignon)に移転させた。これを、古代のバビロン捕囚にたとえて、「'''教皇のバビロン捕囚'''」(1309〜77)という。その後、教皇庁がローマにもどると、今度はフランスは対抗して、アヴィニヨンに別の教皇をたてた。こうして、ヨーロッパで複数の教皇が並び立った。これを'''教会大分裂'''(1378〜1417)または'''大シスマ'''という。
 
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いっぽう教会は、カトリックの教えに逆らうものを異端審問や魔女狩りなどで処刑していった。
 
14世紀後半、イギリスの'''ウィクリフ'''(Wycliffe)が教会の改革をとなえ、聖書の教えにもとづくべきとし、当時の教会は聖書から外れていると批判し、また聖書を英訳した。
ベーメンの'''フス'''(Huss)(Hus)も、ウィクリフの説に賛同して、教会を批判した。
 
しかし教会は、かれらの説を認めず、'''コンスタンツ公会議'''(1414〜18)を開いて、ウィクリフとフスを異端と認定し、フスを火刑に処し、異端問題を終結させようとした。
 
しかし、ベーメンではフス派がチェコ民族運動とむすびつき、教会に反対運動のする戦争('''フス戦争''')が起きるなど、教会から人心は離れていき、教皇権の権威は戻らなかった。
 
これが、近世初頭の、ルターなどによる宗教改革につながっていく。