「高等学校日本史B/第一次世界大戦と日本」の版間の差分

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大正政変
石井・ランシング協定
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大隈内閣は1915年の総選挙で勝利し、与党の立憲同志会を勝利に導き、懸案の2個師団増設を実現した。
 
== 第一次世界大戦 ==
1916年、陸軍出身の'''寺内正毅'''(てらうち まさたけ)内閣が・・・(※ 記述中)
=== 日本の行動 ===
第二次大隈内閣のときに、日英同盟を理由に、第一次世界大戦に参戦した。参戦当時の日本の外相は加藤高明(かとう たかあき)である。
 
そして日本はドイツに宣戦布告し、ドイツの勢力範囲として中国にもっていた山東省の青島(チンタオ)を占領し、またドイツ領だった南洋諸島を占領した。
 
日本は対中外交では、加藤外相ひきいる日本政府は1915年1月、中国の袁世凱政権に'''二十一カ条の要求'''をした。山東省ドイツ権益の日本による継承(第1号)、日本のもつ満洲権益の有効期限の99年延長(第2号)、漢冶萍(かんやひょう)公司(コンス)の日中共同経営(第3号)、からなる第1号〜第4号と、
中国政府に日本人顧問を置くこと、警察の日中共同、などを含む第5号の、第1号〜第5号を要求した。
 
アメリカが第5条に抗議を行い、第5条は削除されたが、日本は5月に最後通牒を中国につきつけ、袁世凱政権に要求の大部分を承諾させた。
 
この21カ条の要求に対して、中国国内では反発が高まり、中国政府が要求を受けいれた5月9日は「国恥記念日」(こくち きねんび)として記憶された。
 
 
大隈内閣のあとは寺内内閣である。1916年、陸軍出身の'''寺内正毅'''(てらうち まさたけ)内閣は外交政策を一変し、中国のホップポウ軍閥の段祺瑞(だんきずい)政権を支援し、巨額の対中借款を行って('''西原借款'''、にしはら しゃっかん)権益を確保した。(なお、この西原借款は、のちに焦げついた。)
 
* 石井ランシング協定
1917年、中国進出をねらっていたアメリカは、おなじく中国進出をねらっていた日本と利害調整をするため、寺内内閣の特派大使 石井菊次郎(いしい きくじろう)と国務長官ランシングとのあいだで、'''石井・ランシング協定'''(いしいランシングきょうてい)が結ばれた。この協定により、日本が中国にもつ「特殊権益」の大部分は、アメリカに認められた。また、アメリカの主張する、中国の領土保全や門戸開放の原則が決められた。
 
=== 第一次世界大戦のながれ ===
:(※ 記述中)