「中学校社会 歴史/世界恐慌と各国の対応」の版間の差分

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== 第一次世界大戦のあとの経済 ==
昭和時代(しょうわ じだい)とは、昭和天皇(天皇裕仁、読み「ひろひと」)の治世を指す語。
第一次世界大戦の前からアメリカは生産力がとても高かった。さらに戦争によってヨーロッパが弱体化したので、戦後(第一次世界大戦後)はアメリカが世界経済や国際政治の中心地になった。
 
== 世界恐慌とブロック経済 ==
==概要==
=== 世界恐慌(せかい きょうこう) ===
1927年から1989年までに当たるが、[[第二次世界大戦]]終結(1945年9月2日)もしくは[[日本国憲法]]施行(1947年5月3日)を境に、国の形が全く違っている。第二次世界大戦終結前は天皇主権の「'''大日本帝国'''」の時代であり、第二次世界大戦後は国民主権の「'''日本国'''」の時代である。
[[ファイル:Crowd outside nyse.jpg|thumb|300px|right|アメリカの記入取引所のウォール街(ウォールがい、場所はニューヨークにある)で、騒然(そうぜん)とするアメリカ人たち。]]
1929年に、アメリカで株価が大きく下がった。株価などが大きくさがることを「暴落」(ぼうらく、英:Crash)あるいは「大暴落」(だいぼうらく、英:Great Crash)などという。この株価の大暴落(だいぼうらく)をきっかけに、世界的な不景気になり、世界中で多くの会社が倒産したり銀行が破綻(はたん)して、世界中で失業者が増えた。このアメリカの株価の暴落がきっかけになった世界の不景気を<big>'''世界恐慌'''</big>(せかい きょうこう、英:world economic crisis ワールド・エコノミック・クライシス)という。
 
このアメリカでの暴落が起きた日の曜日が木曜日だったので、「暗黒の木曜日」つまり英語に直すと「ブラック・サーズデイ」(black Thursday)とも、言うようになった。アメリカでは、労働者の4人につき1人が失業した。(失業率25%)
特徴として、大日本帝国の昭和年間(1927年~1945年)は、帝国時代の末期であり、'''ファシズム時代'''である。一方で、日本国の昭和年間(1945年~1989年)は、民主国家時代の一部であり、'''冷戦'''(れいせん)時代である。
 
=== 日本の状況 ===
大日本帝国の昭和年間、日本国の昭和年間の共通要素としては、「'''核兵器の時代'''」である点が挙げられる。大日本帝国の昭和年間は原爆投下が起こった「'''核戦争の時代'''」であり、日本国の昭和年間は冷戦による「'''核平和の時代'''」である。しかし、核開発自体は1930年代から極秘に始まっていたが、本格的に核兵器時代が始まった時は、1945年8月の原爆投下である。尚、「核平和の時代」の終わりは1989年で、昭和天皇の死と共に東欧民主化革命が起きた年である。
日本では世界恐慌の前から、すでに大戦景気の終わりによって不景気になっていた。日本では、世界恐慌(※ 1929年に起きる)の起こる前から、たびたび日本国内で不景気による恐慌が起きていた。1923年には関東大震災で、経済も大きく打撃を受けていた。
 
日本では1927年に、多くの銀行の倒産や休業があいつぎ、取り付けさわぎも起こって、'''金融恐慌'''(きんゆう きょうこう)が起きていた。(※ 昭和戦前の「金融恐慌」を覚えさせるは中学範囲外だが、高校で覚えさせられるので、せっかくだから覚えてしまおう。この用語自体は、中学の検定教科書にも書いてある。)
==大日本帝国年間==
1929年にアメリカでは株価が大暴落しこれが世界に飛び火した(世界恐慌)。各国は不況を乗り切ろうとし、アメリカは'''フランクリン・ルーズベルト'''大統領のもとで'''ニューディール'''(新規巻きなおし)政策を取り公共事業を活性化させるもあまり上手くはいかず不況は尾を引いていた。英仏はその膨大な植民地に物を言わせてブロック経済政策をとり第三国との貿易を制限した。ソ連は5カ年計画を行い計画経済を成立させ一見恐慌の影響を受けていないような状態だったがウクライナなどでは多数の餓死者を出すなどの惨事もあった。
 
このような日本国内の金融恐慌にくわえて、さらに世界恐慌が1929年に起きたので、日本は大きく不景気になった。
この世界恐慌の影響を最も受けていたドイツでは、社会不安から'''ヒトラー'''率いる国家社会主義ドイツ労働者党('''ナチス''')が台頭し、1933年に政権を獲得した。ナチ政権はアウトバーンの建設などでドイツ経済を復活させたが国民の不満のはけ口を人種差別に求めユダヤ人などの「劣等民族」とされた人種は迫害を受けたり虐殺されたりした。このヒトラー率いるナチ政権のドイツを、現在ではナチス・ドイツという。イタリア王国も、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の子分であるベニート・'''ムッソリーニ'''率いるファシスト党がローマに進軍し独裁体制を固めた。大日本帝国も、昭和天皇の政権掌握と共に治安維持法の時代に突入し、民主主義思想・共和制思想・反戦思想は特高警察によって烈しく弾圧された。これらのような独裁政治や全体主義を「'''ファシズム'''」という。
アメリカ向けの生糸などの輸出をしていたので、日本も世界恐慌の影響を強く受けた。その上、さらに世界恐慌がやってきて、日本はとてつもなく不景気になった。
 
そして日本では、多くの会社が倒産した。このため、三菱や三井・住友などの財閥が倒産した会社の事業を吸収した。だが、このことによって、財閥が大もうけしていると庶民から見られるようになり、財閥が敵視されるようになっていった。
当時の軍部は社会不安から国民にも支持される形で1931年に'''満州事変'''(まんしゅうじへん)<ref>当時、満州では排日運動が激しく権益防衛のため軍部が独断で引き起こした</ref>を誘発し満州国を建国。この国は事実上日本の傀儡政権であったが日本影響下では経済発展を遂げ日本の恐慌脱出にも貢献した。
 
世界恐慌後、日本では農業が混乱していた。まずアメリカ向けの生糸が売れなくなったことから、日本では生糸の原料の まゆ の価格が暴落し、養蚕業(ようさんぎょう)が衰退した。さらに1930年では、豊作で米の価格が暴落し、農家の収入がへり、農家がくるしくなった。そして翌年の1931年には、こんどは凶作で、東北地方を中心に、農村が不況になった。欠食児童(けっしょくじどう)がでたり、娘(むすめ)を身売りさせる家も出てきた。
1932年の5月に海軍青年将校らが、犬養毅らを襲撃するクーデター未遂事件が発生した。( '''五・一五事件'''(ごいちご じけん) )。1936年の2月にも陸軍青年将校らが、首相・大臣を襲撃する事件が起こり( '''ニ・二六事件'''(にいにいろくじけん) )徐々に軍部の内政干渉が起こり始めていた。しかし相次ぐ政党政治への不信感から国民は軍部を支持していた。
 
いっそ農村から脱出して都市で働こうにも、むしろ都市で失業した人が農村にもどってくる状況であった。
:※ 五・一五事件
::1932年5月15日当時の首相 犬養毅を海軍の青年将校らが暗殺した事件。これにより政党内閣が終わった。
 
このように世界恐慌の影響が、日本では1930年ごろから影響があらわれはじめ、'''昭和恐慌'''(しょうわ きょうこう)となった。
:※ ニ・二六事件
::1936(昭和11)年2月26日陸軍皇道派(こうどうは)の青年将校がクーデターを起こし、反対派の内大臣斉藤実、蔵相 高橋是清,、陸軍教育総監 渡辺錠太郎 らを殺害した事件。
 
(※ 昭和戦前の「昭和恐慌」を覚えさせるは中学範囲外だが、高校で覚えさせられるので、せっかくだから覚えてしまおう。この用語自体は、中学の検定教科書にも書いてある。)
1937年に'''盧溝橋事件'''(ろこうきょう じけん)が何者かにより発生し日中戦争(にっちゅうせんそう)が起こる。大日本帝国政府は不拡大方針を貫こうとしたが、国内の圧倒的な軍部支持の世論に負け戦線が拡大すると追認していった。日本は中国の都市の大部分を占領したが<ref>日本軍が中国の首都南京(ナンキン)を占領した際に市民に多数の死者を出した。( '''南京事件'''(ナンキンじけん) )なおこの事件については資料の上で疑問点もあり今日でも論争が続いている。</ref>中国はゲリラ戦などを駆使し激しく抵抗。
 
このように日本国民の生活が苦しくなってきたため、労働争議や小作争議が、はげしさを増していった。
以前から日本を敵視していた米英からは反発を買い、中国を援助する政策を取リ戦争を長期化させる。
 
=== 日本の軍縮 ===
戦争が長期化するにつれ国民生活も貧窮し始め生活必需品の配給制、物価統制が行われるようになった。また挙国一致の一環として1938年に国家総動員法(こっかそうどういんほう)が成立し物価統制が容易に行われた。1940年にはドイツやソ連の一党独裁を模倣するために全政党を解散させて大政翼賛会(たいせいよくさんかい)を結成した。
同じころ、第一次大戦後の軍縮のながれがあったので、各国の政府は不景気もあり軍事費をへらすため、軍縮に同意した。
 
1930年には、ロンドン海軍軍縮会議に日本も参加して、この条約('''ロンドン海軍軍縮条約''')に調印した。
1939年に以前から周辺諸国を併合し領土獲得を進めてきたナチス・ドイツとソ連は独ソ不可侵条約締結後にポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まった。当初ドイツ軍は勝利を収め1940年にはフランスを征服した。その快進撃を目の当たりにした日本は急速にドイツに接近し1940年9月に'''日独伊三国同盟'''(にちどくい さんごくどうめい)を締結した。これはヨーロッパのドイツと手を組み、イギリスやソ連を牽制する目的だったが逆に米英との対立関係を深めた。
 
(※ 昭和戦前の「ロンドン海軍軍縮条約」を覚えさせるは中学範囲外だが、高校で覚えさせられるので、せっかくだから覚えてしまおう。この用語自体は、中学の検定教科書にも書いてある。)
日本は1941年にソ連と日ソ中立条約(にっそちゅうりつじょうやく)を締結し日独伊三国同盟にソ連を加えようとしたがドイツがソ連に侵攻し独ソ戦が始まりその構想は破綻した。
 
日本は日中戦争の長期戦打開のために1941年フランス政府との合意の上仏領インドシナ(現:ベトナム)に進駐するが逆に米英から石油禁輸などの強硬な経済制裁を受け日米間の関係悪化は決定的になっていった。このときに形成された対日経済包囲網を「ABCD包囲陣」ABCD包囲網(エービーシーディーほういじん)という。
 
:(※ 第二次世界大戦の軍国主義のイメージのため、てっきり昭和の戦前の日本の軍事政策というと、てっきり軍備の増強ばかりをイメージしてしまいがちである。ところが、実際には、1930年には、世界恐慌などの影響もあり、むしろ軍縮をしていた時期もあったのである。しかし1931年の満州事変(まんしゅう じへん)で、事態は急変する。)
その最中、日本はアメリカと交渉を行い石油禁輸の解除を求めるも逆に「ハル・ノート」と呼ばれる強行案<ref>満州を含む中国全土からの即時撤退などを要求。</ref>を提出され対米開戦を決意。
 
しかし、日本の軍人たちの中には、この軍縮を敵視した。そして、この軍縮条約が、天皇の権限を犯しているという口実で、政党を批判する意見が、軍部内に強くなった。
1941年に'''太平洋戦争'''(読み:たいへいようせんそう、 大東亜戦争(だいとうあせんそう) とも言う。)<ref>戦後「大東亜戦争」の使用が禁止されたため「太平洋戦争」の名称が一般的になった。</ref>が勃発する。日本は戦争目的を自存自衛とアジアを欧米の植民地から解放し「大東亜共栄圏」(だいとうあ きょうえいけん)を建設することであると宣言した。<ref>しかし日本軍政下のもとで神社参拝、日本語教育の強制が行われたので現地人から反感を買い抗日運動が頻発した。</ref>当初は勝ち戦にみえたが翌年1942年のミッドウェー海戦で形勢が逆転。以降は敗走の連続で国民は物資の不足に悩まされる。南洋諸島の多くでは物資の不足に苦しみ玉砕の戦場となっていった。
 
首相の浜口雄幸(はまぐち おさち)は、過激派の右翼の暴漢におそわれて負傷し、浜口は退陣をした。
1943年には、大学生も戦争に従事させる学徒出陣(がくとしゅつじん)が行われた。また同年イタリアが降伏。1944年にはサイパン島が陥落し本格的な本土空襲が始まり国民の多くが犠牲になった。空襲が本格的に始まると惨禍を避けるため児童は地方に疎開(そかい)した( 学童疎開(がくどうそかい) )。また学生も工場での兵器生産などに従事した。(学徒動員)その他、婦人会なども挙国一致体制に貢献した。
 
また、このころ恐慌だったため、政党が財閥の見方をして民衆を苦しめていると考える勢力が、軍部内に多くなり、軍部からは政党を敵視する意見が強くなった。
1945年になると、ドイツの戦況が不利なことより、4月30日にはヒトラーが自殺し、5月8日にドイツが降伏。東京・大阪などの主要都市が空襲で焼け野原となった。そして、7月26日にはポツダム宣言(ポツダムせんげん)が公布されたが、大日本帝国政府は当初これを無視した。この結果、8月6日には広島に、8月9日には長崎に核兵器(原子爆弾)が投下され、ソ連軍が日ソ中立条約を破り満州に侵攻した。原爆2発とソ連軍侵攻を受けて、8月14日に'''ポツダム宣言'''(日本への降伏要請宣言)を受諾し、9月2日にポツダム宣言に調印して降伏した。そのときには国民のほとんどが苦しい生活であった。
 
==日本国年間==
===概観===
敗戦後の日本は、連合国による占領下に置かれ、政治体制は変わり帝国主義から民主主義・平和主義に変わった。日本国民は国際社会に復帰することとなった。
 
(※ なお1928年には、張作霖(ちょうさくりん)を爆殺した事件を、日本の陸軍が起こしてる。)
戦後から約30年ほど経つと、日本の経済力は世界第2位の規模(GNPという指標による)となったが、一方で成長に限界が生じ、安定的な経済成長の下、成長に伴って生じた問題点の解決が求められ、現在にいたっている。
 
=== ファシズムと経済 ===
===終戦から国際社会への復帰まで===
====戦後の改革 イタリア ====
世界恐慌(1929年に起きる)の起こる前から、イタリアでは1922年に'''ムッソリーニ'''のひきいる'''ファシスト党'''が政権をにぎっていた。
敗戦後、日本を占領した連合国軍(具体的には連合国軍最高司令官総司令部)の主導の下、様々な改革が行われた。
 
このファシスト党が独裁的な政党だったので、このような思想を、のちに'''ファシズム'''というようになった。
==出来事==
===大日本帝国年間===
:(※ リンク先はウィキペディア。時間が無いときは、見に行かなくて良い。)
* [[w:1926年|1926年]](昭和元) - 大正天皇死去、摂政宮裕仁親王即位
* [[w:1929年|1929年]](昭和4) - [[w:世界恐慌|世界恐慌]]がおこる。
* [[w:1931年|1931年]](昭和6) - [[w:満州事変|満州事変]]がおこる。
* [[w:1932年|1932年]](昭和7) - [[w:五・一五事件|五・一五事件]]
* [[w:1936年|1936年]](昭和11) - [[w:二・二六事件|二・二六事件]]
* [[w:1937年|1937年]](昭和12年)-[[w:日中戦争|日中戦争]]がはじまる
* [[w:1938年|1938年]](昭和13) - [[w:国家総動員法|国家総動員法]]が制定される
* [[w:1939年|1939年]](昭和14) - [[第二次世界大戦]]勃発
* [[w:1940年|1940年]](昭和15) - [[w:日独伊三国軍事同盟|日独伊三国軍事同盟]]締結
* [[w:1941年|1941年]](昭和16) - 12月8日[[w:太平洋戦争|太平洋戦争]](大東亜戦争)開戦
* [[w:1942年|1942年]](昭和17) - ミッドウェー海戦で形勢逆転する。
* [[w:1945年|1945年]](昭和20) - [[w:ヤルタ会談|ヤルタ会談]]により[[w:冷戦|冷戦]]が勃発。東京大空襲(とうきょう だいくうしゅう)、連合軍による沖縄占領、[[w:日本への原子爆弾投下|広島・長崎に原子爆弾投下]]
** 9月2日、ポツダム宣言調印、大日本帝国は主権を喪失。
 
===日本国年間= ドイツ ====
[[ファイル:Adolf Hitler-1933.jpg|thumb|200px|ヒトラー。なお、かれは若いころは画家を目指していた。]]
:(※ リンク先はウィキペディア。時間が無いときは、見に行かなくて良い。)
ドイツでは第一次大戦の賠償(ベルサイユ条約にもとづく賠償)で国家財政が苦しくなっているのに加えて、そこに大恐慌がやってきたので、貨幣のマルクの信用が落ち、物価がものすごく上がった。このように物価が上がることを インフレ(英:inflation インフレーション) と言う。ものすごく物価が上がることを ハイパー・インフレ(英:Hyperinflation) という。
* [[w:1945年|1945年]](昭和20) - [[w:GHQ|GHQ]]占領軍統治はじまる
* [[w:1946年|1946年]](昭和21) - 男女[[w:普通選挙|普通選挙]]となって初の国政選挙である衆議院議員総選挙。
** [[w:東京裁判|東京裁判]]において戦争指導者等が裁かれるも、大元帥の昭和天皇は訴追すらされなかった。
* [[w:1947年|1947年]](昭和22) - [[w:日本国憲法|日本国憲法]]施行。日本国が法的に成立。天皇は「国民の象徴」として権力を剥奪された。主権在民・戦争放棄を提唱、基本的人権の拡充がなされる。
* [[w:1950年|1950年]](昭和25) - [[w:朝鮮戦争|朝鮮戦争]](ちょうせん せんそう)勃発
* [[w:1952年|1952年]](昭和27) - 4月28日、[[w:サンフランシスコ平和条約|サンフランシスコ平和条約]](日本国との平和条約)調印。日本国の主権回復
** [[w:日米安全保障条約|日米安全保障条約]]締結。
* [[w:1953年|1953年]](昭和28) - テレビ放送開始。
* [[w:1955年|1955年]](昭和30) - 吉田茂(よしだ しげる)を党首とする自由党、鳩山一郎(はとやま いちろう)を党首とする民主党が合同し、自由民主党誕生。以降、自由民主党と日本社会党の保革対立の時代(55年体制)が始まる。
* [[w:1956年|1956年]](昭和31) - [[w:日ソ共同宣言|日ソ共同宣言]]によりソ連と国交を回復する。
** [[w:国際連合|国際連合]]に加盟
*[[w:1964年|1964年]](昭和39) - [[w:東海道新幹線|東海道新幹線]]開通。
** [[w:東京オリンピック|東京オリンピック]]大会開催。
* [[w:1969年|1969年]](昭和44) - [[w:東名高速道路|東名高速道路]]全線開通。
* [[w:1970年|1970年]](昭和45) - [[w:大阪万国博覧会|大阪万国博覧会]]開催。
* [[w:1972年|1972年]](昭和47) - 米軍の占領下にあった[[w:沖縄返還|沖縄が返還]]される。
** 田中角栄(たなか かくえい)首相、[[w:中華人民共和国|中華人民共和国]](ちゅうかじんみん きょうわこく)を訪問。
* [[w:1973年|1973年]](昭和48) - 第一次[[w:オイルショック|オイルショック]]。
* [[w:1976年|1976年]](昭和51) - [[w:ロッキード事件|ロッキード事件]]。
* [[w:1978年|1978年]](昭和53) - [[w:日中平和友好条約|日中平和友好条約]]が調印される。
* [[w:1985年|1985年]](昭和60) - [[w:電電公社|電電公社]]と[[w:専売公社|専売公社]]が民営化され、各々[[w:日本電信電話|日本電信電話]](NTT)、[[w:日本たばこ|日本たばこ]](JT)となる。
* [[w:1987年|1987年]](昭和62) - [[w:日本国有鉄道|日本国有鉄道]]が分割民営化され、[[w:JR|JR]]各社となる。
* [[w:1989年|1989年]](昭和64) - 昭和天皇死去。[[w:天安門事件|天安門事件]](てんあんもんじけん)。[[w:東欧革命|東欧民主化革命]]が起こり、[[w:冷戦|冷戦]]が終結する。
 
パンなどの食料品を買うのにすら、手押し車に札束をたくさんつめて買い物をする、という状況であった。
== 脚注 ==
このような状況のため、ドイツ経済は大混乱になり、失業者があふれた。
<references />
 
1933年には、'''ヒトラー'''のひきいる'''ナチ党'''(「'''ナチス'''」ともいう)が政権を取った。ヒトラーは公共事業をおこして失業を減らすことに成功したので、ドイツ国民からの支持をあつめた。
==関連項目==
* 帝国時代
** [[中学校社会 歴史 明治時代]]
** [[中学校社会 歴史 大正時代]]
* [[中学校社会 歴史/第二次世界大戦]]
* [[中学校社会 歴史/冷戦]]
 
ナチスは、ドイツ民族の優秀さを強調するいっぽう、ユダヤ人を迫害し、また共産主義者を敵視した。
== 本文 ==
=== 世界恐慌とブロック経済 ===
==== アメリカ ====
第一次世界大戦の前からアメリカは生産力がとても高かった。さらに戦争によってヨーロッパが弱体化したので、戦後はアメリカが世界経済や国際政治の中心地になった。
 
 
==== 世界恐慌(せかい きょうこう) ====
[[ファイル:Crowd outside nyse.jpg|thumb|300px|right|アメリカの記入取引所のウォール街(ウォールがい、場所はニューヨークにある)で、騒然(そうぜん)とするアメリカ人たち。]]
1929年に、アメリカで株価が大きく下がった。株価などが大きくさがることを「暴落」(ぼうらく、英:Crash)あるいは「大暴落」(だいぼうらく、英:Great Crash)などという。この株価の大暴落(だいぼうらく)をきっかけに、世界的な不景気になり、世界中で多くの会社が倒産したり銀行が破綻(はたん)して、世界中で失業者が増えた。このアメリカの株価の暴落がきっかけになった世界の不景気を<big>'''世界恐慌'''</big>(せかい きょうこう、英:world economic crisis ワールド・エコノミック・クライシス)という。
 
このアメリカでの暴落が起きた日の曜日が木曜日だったので、「暗黒の木曜日」つまり英語に直すと「ブラック・サーズデイ」(black Thursday)とも、言うようになった。アメリカでは、労働者の4人につき1人が失業した。(失業率25%)
 
 
==== 日本の状況 ====
日本は、アメリカ向けの生糸などの輸出でもうけていたので、日本も世界恐慌の影響を強く受け、日本も不景気になった。日本では世界恐慌の前から、すでに大戦景気の終わりによって不景気になっていた。その上、さらに世界恐慌がやってきて、日本はとてつもなく不景気になった。
 
多くの会社が倒産した。このため、三菱や三井・住友などの財閥が倒産した会社の事業を吸収した。だが、このことによって、財閥が大もうけしていると庶民から見られるようになり、財閥が敵視されるようになっていった。
 
同じころ、第一次大戦後の軍縮のながれがあったので、各国の政府は不景気もあり軍事費をへらすため、軍縮に同意した。
 
だが、日本では、軍部から政党を敵視する意見が強くなった。
そして、政党も財閥の見方をしていると考える勢力がおおくなり、軍部からは政党を敵視する意見が強くなった。
 
 
日本では、農業が混乱していた。まず1930年では、豊作で米の価格が暴落し、農家の収入がへり、農家がくるしくなった。そして翌年の1931年には、こんどは凶作で、東北地方を中心に、農村が不況になった。欠食児童(けっしょくじどう)がでたり、娘(むすめ)を身売りさせる家も出てきた。
 
==== ドイツの経済 ====
ドイツでは第一次大戦の賠償で国家財政が苦しくなっているのに加えて、そこに大恐慌がやってきたので、貨幣のマルクの信用が落ち、物価がものすごく上がった。このように物価が上がることを インフレ(英:inflation インフレーション) と言う。ものすごく物価が上がることを ハイパー・インフレ(英:Hyperinflation) という。
 
パンなどの食料品を買うのにすら、手押し車に札束をたくさんつめて買い物をする、という状況であった。
このような状況のため、ドイツ経済は大混乱になり、失業者があふれた。
 
また、ベルサイユ条約を無視して再軍備をした。このため軍需産業も活発になり、これも景気の回復に役だった。
 
 
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イギリスほどの植民地ではないが、日本もまた満州に権益をもっていたので、満州の権益の保護を強めようとした。
 
==== 中華民国アメリカ状況ニューディール ====
アメリカ合衆国のローズベルト大統領は、失業者を減らすために公共事業をたくさん起こすなど、政府が積極的に仕事をつくって経済を回復させる'''ニューディール'''政策を1933年から行った。
[[ファイル:Chiang Kai-shek Colour.jpg|thumb|150px|蒋介石(しょう かいせき)]]
「ニューディール」とは「新規まき直し」という意味である。
同じ頃、中華民国では、孫文の亡くなったあと、国民党で権力闘争が起き、その闘争に勝った'''蒋介石'''(しょう かいせき)が支配していた。蒋介石によって国民党が支配された後、国民党による中国大陸の統一を目指した武力行動によって中華民国内での国民党の勢力が広まっていき、この国民党と日本とのあいだで、満州の権益をあらそうことになっていった。
 
 
いっぽう、蒋介石の権力に不満のある軍閥は、共産党(きょうさんとう)という、国民党とはべつの勢力に加わっていくことになる。
 
==== ドイツでのヒトラーの台頭 ====
いっぽう、ヨーロッパでは、第一次大戦で植民地および領土を失ったドイツと、もとから植民地の少ないイタリアを中心に、イギリスやフランスなどを敵視する勢力が強くなった。
 
[[ファイル:Adolf Hitler-1933.jpg|thumb|200px|left|ヒトラー]]
とくにドイツでは、第一次大戦による賠償金などもあり経済が苦しかった上に、世界恐慌により、ドイツの貨幣の価値が暴落した。このような状況により、ベルサイユ条約への不満が高まり、このベルサイユ条約への批判をかかげる政党である'''ナチス'''(ドイツ語:Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)ひきいる政治家の'''ヒトラー'''(Adolf Hitler アドルフ=ヒトラー)が、ドイツ国民の支持をあつめて、1932年の選挙では、ヒトラーひきいるナチスが政権を手にした。1934年には、ドイツのそれまでの憲法(ワイマール憲法)を無視して '''全権委任法'''(ぜんけんいにんほう)を制定させて、独裁体制をつくった。そして1935年にはベルサイユ条約からドイツは抜けた。ドイツの国民はヒトラーの、このような政策を支持した。ベルサイユ条約のもとではドイツの軍備が規制されており徴兵制が禁止されていたが、条約をやめたのでドイツは徴兵制(ちょうへいせい)を復活させ、再軍備(さいぐんび)をしていった。
 
ナチスひきいるドイツは、ユダヤ人に対して、迫害(はくがい)を行った。多くの罪の無いユダヤ人が逮捕されて強制労働させられたり、あるいは処刑されたりした。そのため、ユダヤ人がドイツから脱出していった。ドイツから逃れてドイツ以外のヨーロッパの国や、あるいはアメリカ合衆国へと、ユダヤ人は脱出していった。
 
ユダヤ人の科学者のアインシュタインなども、ドイツから逃れて、アメリカ合衆国へと渡った。
 
 
当時のユダヤ人は国家を持たない民族だった。ユダヤ社会は伝統的に教育を重んじ、そのため社会で出世する者も多く、とくに金融の世界ではユダヤ人の影響力が強かった。恐慌下の社会で、もし豊かな者がいれば、多くの貧しい者は、その豊かな者のせいで貧しい自分たちは生活が苦しいのだ、と思うだろう。このような金融に関するユダヤ人の強さという背景もあり、恐慌下でのヨーロッパでは、反ユダヤ的な感情が強まっていたのであった。
 
 
テネシー川にダムをつくるなどの公共事業を行った。また、政府は労働組合を保護し、労働者の賃金をあげる政策を行った。
さて、ナチスの経済政策では、ドイツのインフレによる不況を解決した。このときのドイツの経済手法は、統制的な経済手法による方法だった。従来までの伝統的な自由放任(じゆう ほうにん)的な経済手法を否定した方法でもある。このような経済政策の成功もあり、ドイツ国内でのナチスへの支持は増えていった。
 
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==== 世界的な傾向 ====
ソビエト連邦は、経済が、もとから共産主義であり、欧米型の資本主義ではなかったので、あまりソビエトは世界恐慌の影響をうけなかったとされる
 
このようなこともあり、世界恐慌にくるしむ各国では、ソビエトのように経済における統制をしようとする意見が強まっていく。
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こうして、世界恐慌により、全体主義の国が増えていく。
 
 
==== ファシズム ====
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「ファシズム」(伊: fascismo)の語源はイタリア語の「ファッショ」(束(たば)、集団、結束)である。
 
なお、ドイツ・日本・イタリアの3か国とも、ソ連の共産主義を敵視していた。このため、共産主義とファシズムとは、べつべつの思想として取りあつかうのが、現代では普通である。
 
== 日本の中国侵略 ==
=== 中華民国の状況 ===
[[ファイル:Chiang Kai-shek Colour.jpg|thumb|150px|蒋介石(しょう かいせき)]]
中華民国では、孫文の亡くなったあと、国民党で権力闘争が起き、その闘争に勝った'''蒋介石'''(しょう かいせき)が支配していた。蒋介石によって国民党が支配された後、国民党による中国大陸の統一を目指した武力行動によって中華民国内での国民党の勢力が広まっていき、この国民党と日本とのあいだで、満州の権益をあらそうことになっていった。
 
いっぽう、蒋介石の権力に不満のある軍閥は、共産党(きょうさんとう)という、国民党とはべつの勢力に加わっていくことになる。
 
 
=== 満州事変 ===