「法学入門」の版間の差分

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「法学入門」とは、大学,短期大学等の一般教育課程の科目の1つである。解説方法は大まかに分けて2つあり、憲法をはじめ各法領域の概要を簡潔に説明するものと(「法学通論」とよばれることもある)、憲法以外の各法領域と憲法とを前編・後編に分けて説明するものがある。戦後昭和20年代から50年代にかけては、実定法(憲法,民法,刑法等)以外の基礎法(法哲学,法史学)の説明について相当量あったが、その後は少なくなった。現在は、国際情勢および国内状況の流動期に及んで、再び、基礎法の説明を試みるものが散見される。
「法学入門」とは、講義科目としての『法学』又は『法律学』(学説により法学と法律学は区別される)の初学者に対して、「『法』とは何か」「『法律』とは何か」を示し、いろいろな事がらについて、どのような法的観点があるのかを説くものである。法と法律は、人の社会生活のあらゆる局面を、さまざまな目的から調整をおこなうものである。それは前もって結末や結論が決められているドラマのような架空の事柄ではなく、現実に起こっている微妙かつ複雑な事柄をバランスよく発展的に解決する社会性の高い技術である。したがって、法と法律を学ぶ観点は、先ずは、法が対象とする社会について知り、次いで、法律に対する人々の理解の現実を知る努力がなされなければならない。その上で、現実の事件がどのように取り扱われたかを丹念に考察し、かつ、その当否について価値判断し、そして、それがどのように調整されるべきかを、社会に向け発し、かつ、説得できるかを自ら考えることができるようになることといえる。現実の事件の広範性・多様性を考慮すると、断片的な情報による世間話のようなものでは法的観点を定立することは不可能である。その多くは、日常会話において、報道で聞くことの多い法律用語を意味を十分に確かめることもせずに使ってみたり、さらに、単に「やり方」と言えば済むことを「方法論」と言ったり、また、部分的で「特徴」というべきものを「本質」と言ったり、「解釈」という語を不必要にまでに使うなど、表面的かつ無内容なものとなってしまう。この場合に、自分に有利でないことに対して突発的に「屁理屈」という語が繰り返されることもあるが、これはある種の恫喝的行為で法的話し合いを遮るものであり、ここには何が重要な問題であるかについての洞察は無い。現実的には、依頼主の利点を中心に解決が試みられ、そして関係者間の調整を図ることはしばしばみられるが、先ずは、自分に関する物ごとや権利と他人に関する物ごとや権利の違いを感覚的に理解するという最も基本的な法的感覚を理解し、それぞれが別なものとして円滑に行動する実践力を身につけることが法学を学ぶ最も大きな意義である。例えば、職場等で、形式的なコンプライアンス(法令遵守)を謳い、実際は明示・暗示を問わず平然とハラスメントが行われていたり、また、メールの盗み読み等が日常的にされているような状況には、実質的な法的感覚は一切みられない。一方的な私的感覚が法的感覚を抑えて、唯一の判断基準となっている状況であり、このような一方的な私的感覚が、様ざまな機会を得て、公的および公共性感覚を侵食・混濁する可能性は警戒すべきものといってよい(例.一見合理的な一企業内特有の営利的方針など)。これについては、衆愚的なたかり感覚によるものとの指摘もあり<ref>星野 英一・樋口 陽一「社会の基本法と国家の基 本法(特別対談)」【特集】世紀の転換点に憲法考える(ジュリスト2001年1月1-15日号(No.1192)) 有斐閣</ref>、実際、[[権利]]と自分[[勝手]]の違いを理解できない法現象のひとつとして、いわゆる[[w:モンスターペアレント|モンスターペアレント]]の社会問題は広く知られている。このような状態で法について語ることは、学問に対して不遜な態度であり、かつ、情動を誘発するものとして戒めるべきものとすら言える。
 
他の科目と比較しての「法学入門」の特徴について、見解は多様である。ただし、その方法論については、価値観念(イデオロギー)と実体価値(現実の利害)に関する規定的調整であることに異論はないようである。
 
 
{{Wikiversity|法学入門|Topic:法学入門|トピック}}
以下は戦後昭和期の主な学説を展開した著作を紹介すであが、学説の形成に関しては明治期以降から昭和初期、また、現代的問題に関しては平成初期から現在に至る書物を参照されたし
 
=== 法学一般 ===