「高等学校日本史B/第一次世界大戦と日本」の版間の差分

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コラム: 軍部大臣現役武官制の欠陥
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西園寺退陣後の後任の首相には、陸軍出身で長州閥であり内大臣・侍従長であった'''桂太郎'''(かつら たろう)がついた(第3次桂内閣)。しかし世論は、西園寺内閣の退陣が桂によるものと見て、桂を批判し、また宮中にいた(侍従長)人物が政府の要職につくことは政府と宮中の境界を乱すものだとして批判した。
 
そして、「'''閥族打破'''・'''憲政擁護'''」(ばつぞだは、けんせいようご)というスローガンの倒閣運動が起こり、批判勢力の政界の中心人物は野党勢力の立憲政友会の'''尾崎行雄'''(おざき ゆきお)や立憲国民党の'''犬養毅'''(いぬかい つよし)であった。
この批判運動に新聞記者・雑誌などのマスコミに、弁護士、商工業者や民衆などが加わり、全国的な倒閣運動になった('''第一次護憲運動'''、だいいちじ ごけん うんどう)。
 
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== 政変後 ==
=== 山本権兵衛 ===
:※ 軍人出身の内閣だからと言って、武断政治とは限らない実例がある。それが、これから紹介する権兵衛の行財政改革の例である。政党人出身の内閣だからと言って、外国に強行的な交渉をする場合もある。それの政党出身の内閣の例が、大隈内閣での中国への二十一箇条要求である。
:※ 第二次世界大戦のイメージで「軍部出身=対外強硬派」みたいに大正時代の軍人出身内閣を捉えてしまうと、ワケが分からなくなる。
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山本内閣は行財政改革を行い、
'''軍部大臣現役武官制'''をゆるめる改正をして予備役・後備役の軍人でも陸海軍大臣につけるように陸海軍大臣の資格を拡大する改革をした。
また、'''文官人用令'''(ぶんかんぶんようれい)を改正して、政党員でも高級官僚につけるようにした。
 
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:ジーメンス事件とは、ドイツのジーメンス社からの軍需品の買入れをめぐっての日本の海軍高官の贈収賄が発覚しと、また巡洋艦金剛(こんごう)の発注をめぐるイギリスのヴィッカース社から日本の海軍高官が賄賂を受け取ったとの事件も明るみになった事件である。
 
=== コラム: 軍部大臣現役武官制の欠陥 ===
{{コラム| 軍部大臣現役武官制の欠陥 |
==== 山県有朋 ====
なお、そもそも軍部大臣現役武官制を最初に明確化したのは'''山県有朋'''(やまがた ありとも)の内閣であり、山県が軍部大臣現役武官制を制定した年は1900年のできごとである。そして、文官人用令をさだめて政党人が官僚になるのを制限した人物も、山県有朋であり、1899年のできごとである。つまり、山本権兵衛は、山県の政策を修正したのである。山県有朋は、陸軍出身である。さらに、治安警察法をつくって政治運動や労働運動を制限した人物も、1900年ごろの山県有朋である。
 
==== のちの第二次世界大戦と軍部大臣現役武官制・治安維持法 ====
そして元老は、大隈重信(おおくま しげのぶ)を後継の首相に任命した('''第2次大隈内閣''')。第2次大隈内閣は立憲同志会を与党として出発した。
のちの昭和の日中戦争の前の時代ころに、治安警察法が治安維持法に発展して、日本の言論活動を統制することになる。この治安警察法・治安維持法による統制が、戦前・戦中の昭和前半の当時の日本が「ファシズム」「軍国主義」などと言われる状態になった原因の一つと考えられる。日中戦争の直接的な原因は、おそらく満州事変とそれ以降の対中強行路線であろうが、その遠因には、このようなこともある。
 
また、同じく日中戦争前の昭和前半の時代ころに、現役武官制のせいで、軍部の強行路線が政府に影響力を持つようになった。そして、戦前昭和の政党が軍部の意向に従わないといけなくなった結果、議会では、日中戦争と太平洋戦争へと向かう日本政府の強行路線を止める議会勢力が機能しなくなった。もちろん、議会の機能低下のより直接的な原因には、満州事変のときに政府が、軍部に同情的な世論に応じてしまい、政府が事件関係者を処罰できなかったため、そののち軍部の暴走を許すような雰囲気を政治や民意につくってしまったという、議会の不手際ももあるだろう。しかし、そのような軍部の暴走の後押しをしかねないような軍部大臣現役武官制という制度が、そもそも存在していたのである。
 
そして日中戦争が拡大していき、アメリカの貿易封鎖などの圧力に日本が反発して日本海軍がアメリカのハワイの真珠湾に奇襲攻撃をしかけ、日中戦争から太平洋戦争へと拡大する。同時期の前後にヨーロッパで起きたドイツと周辺国との戦争とあわせて、第二次世界大戦へと組み込まれることになる。そして、その第二次世界大戦に日本は敗戦して、日本は憲法を改正することになり、日本国憲法が制定されることになる。そして、その日本国絹憲法の内閣の関する事項では軍部大臣現役武官制が否定され、また言論の自由や政治結社の自由、信教の自由などが制定されることになる。
 
==== 制度の分析 ====
官僚機構の一種として軍部を解釈してみよう。選抜方法などは軍部と一般の省庁とでは違うが、とりあえず、「軍部 = 官僚機構の一種」として、軍事をあつかう官僚機構の一種として、軍部をとらえてみる。
 
そもそも、明治・大正に現役武官制や文官人用令などを導入した意図はおそらく、政党の暴走をふせぐために、権力を立法府だけでなく行政にも分散するのと同様に、軍部にも権力を与えようとしたのだろう。こうして行政権や軍部の権限を強めて、政党の影響力をうすめることで、政党の暴走をふせごうとしたのだろうと、一部の評論家などには考えられている。
 
だから、軍部大臣が口をだせるのは軍事だけに限定させよう、という意図で、軍部大臣だけは現役武官でなければならない、と明治大正期には限定していただけだ。
 
ところが結果的には、内閣の組閣そのものに軍部の賛同が絶対に必要な制度となってしまい、そのため結果的に軍部以外の省庁すらも軍部の意向に従わざるをえなくなってしまった。こうして、権力の分散どころか、権力が、軍部と議会とに二分化されるという結果になってしまった。そして、政治家には選挙があるので身分が不安定であるが、しかし軍部には選挙がないので、実質的には権力の二分化どころか、軍部への権力集中となってしまった。
 
現役武官制のこのような欠陥のため、軍部の暴走をふせぐような手段が弱まってしまった。
 
==== 教訓 ====
教訓としては、内閣の組閣の権限は、国政選挙で選ばれた国会議員の代表者である内閣総理大臣の専権事項でなければならない、ということだ。そして、その目的を達するためには、内閣の組閣には、けっして官僚機構や軍部や司法など他機関の承認・許認可などを必要としてはならない、ということだ。
 
「政治を、みんなで話し合って決めよう」というのは、一見すると、平和的に聞こえるかもしれない。だが、しかし内閣の組閣に関するかぎり、「内閣以外のみんなとも話し合って、決めなければならない」というのは、国政選挙で選ばれた議員の権力を侵害することであり、よって「内閣以外のみんなとも話し合って、決めなければならない」は悪事なのである。
 
明治大正期の「軍事政策については、軍部とも話し合って、決めよう」として軍部大臣現役武官制を導入したのが、そもそもの失敗のキッカケであった。
 
聖徳太子のような「和をもって とうとし となす」という考えは、内閣の組閣に関しては悪事なのである。
 
政策の最終的な決定権は、立法府および立法府だけが選抜できる内閣総理大臣に、なければならない。そして、軍部大臣現役武官制は、軍部が内閣のもつべき人事権(じんじけん)を侵害してしまったため、結果的に、軍部が政策の決定権を侵害してしまったことが、欠陥なのである。
 
:※ 人事権(じんじけん)とは、組織・機関において、構成員の採用・解雇や役職などをきめる権限。
 
なにも内閣の人事にかぎらず、一般の組織運営では、役職を決める人事権は、これほどまでに、とても大切な権利なのである。たとえば現代の株式会社では、代表取締役をきめる人事権は、株主がもつ。このため、大株主や筆頭株主(ひっとう かぶぬし)が、その会社の実質的な支配者となっている。
 
 
こんにちの日本国憲法では、立法・行政・司法の三権のなかでも、立法だけが残りの2権よりも、やや強いのであるが(※ 高校『政治経済』科目で、このことを習うので、覚えておこう)、そのことには理由があり、過去の軍部大臣現役武官制のような失敗を繰り返さないとするための工夫である。また、内閣の中でも、他の国務大臣よりも内閣総理大臣の権限が明確に強いのも、軍部大臣現役武官制のような失敗をふせぐためであろう。(※ 中学「公民」および高校「政治経済」で習う)
 
また、その内閣総理大臣そのものが、もし官僚や軍部などの選挙で選ばれない人物であっては、意味がないから、現在の日本国憲法では「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だつて、これを行ふ。」(67条)と規定している。
 
政党は選挙で多数決で選ばれるわけであるが、官僚や軍部は多数決で選ばれない。
 
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この節で見たように、大正時代にも山本権兵衛内閣のように、軍部大臣現役武官制を修正しようという動きがあったのである。しかし、それだけでは、結果的には、のちの軍部の暴走を解決できなかった。歴史を学ぶ意義は、こういった教訓を見出すことにあるのだろう。
 
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=== 大隈内閣 ===
そして元老は、大隈重信(おおくま しげのぶ)を、山県の後継の首相に任命した('''第2次大隈内閣''')。第2次大隈内閣は立憲同志会を与党として出発した。
そしてこの第2次大隈内閣の時代に、第一次世界大戦が1914年に勃発する。第二次大隈内閣は日英同盟を理由にイギリス側の陣営として、外相加藤高明(かとう たかあき)の主導により第一次世界大戦に参戦した。