「高等学校歴史総合/満州事変」の版間の差分

中学校社会 歴史/満州事変 2015年11月16日 (月) 04:34‎ の内容と合流。
(石原莞爾について、 中学校社会 歴史/世界恐慌と各国の対応 2014年11月2日 (日) 09:54 から引用。)
 
(中学校社会 歴史/満州事変 2015年11月16日 (月) 04:34‎ の内容と合流。)
:現在でも、この山川出版のような、不況解決策として日本軍が満州事変を起こしたと解釈を取る学者や評論家も多い。このような「満州事変は、日本の不況解決策」という解釈も通説・定説の一つであり、読者の中学生は頭の片隅(かたすみ)に入れておく必要があるだろう。
 
:ただし、石原莞爾は中間管理職に過ぎず(陸軍課長、つまり課長)、はたして陸軍課長が海軍もふくめて軍部全体を支配できたのかとか、疑問である。石原らの大陸の陸軍が、政府および軍の幹部からの指令を無視して、まるでクーデターのように勝手に満州現地の日本軍が動いたと見るほうが自然な解釈であろう。また、山川出版の解釈は、植民地経営のための日本からの出費なども考えていない。軍事力で植民地などを維持するにも、軍事予算などの税金・費用が掛かるのである
:もし満州事変を不況解決策として考えるなら、むしろ大陸への軍事予算を増やしてしまい、日本国内への投資を減らしては、まずいではないか? 
:また、満州事変の外交上のリスクから、英米との貿易を行いづらくなる、というリスクもある。じつは「ブロック経済」といえども1932年ごろは、まだまだ日本は英米と貿易を続けている最中でもあった。もちろん英米のブロック経済が、日本に英米との協調を放棄させる原因の一つになったという側面もあるだろう。
:しかし、不況解決策と言うよりも、むしろ、事件後の石原の著作『世界最終戦論』から見ると、ソ連軍および中華民国軍への対抗策や、あるいは欧米のブロック経済への対抗という発想から、満州の支配を強化しようという考えが強く見られる。石原は、のちの1940年に『世界最終戦論』と題して、日米決戦を想定した満州・モンゴルの領有を計画した著作を出版している。『世界最終戦論』出版日は、満州事件(1932年ごろ)のあとの1940年(昭和15年)9月10日出版である。(ただし、満州事変後の著作なので、事変当時の考えとは違っている可能性もある。)
:おそらく日本の軍部全体としてみても、ソ連軍および中華民国軍への対抗という軍事的な観点のほうが、軍人としての視点にも合うだろう。
 
:思うに、石原らの「軍対ソ連戦争のための満州ブロック」とでも言うべき変事変的なアイデアが、ちょうど経済危機の日本国にも「経済ブロック」の確保としても好都合だったので不況解決策としても期待され、日本政府は英米との外交上のリスクよりも満州確保という軍事・経済上のメリットを取るという選択を行い、日本政府は満州国建国を認めてしまったとでも、言うところか。
 
:この「軍事ブロック」とでも言うような解釈は、あくまでもウィキブックスの編集者の解釈なので、まちがっている可能性もある。もしかしたら山川出版などの紹介する「不況解決策として植民地拡大のために満州事変が行われた。」というような感じの解釈のほうが、正しいのかもしれない。
 
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*==== 五・一五事件(ご・いちご じけん)====
[[ファイル:May 15 Incident.jpg|thumb|700px|五・一五事件を報じる朝日新聞]]
[[File:Inukai Tsuyoshi.jpg|thumb|犬養毅(いぬかい つよし)。犬飼は、おそってきた将校に「話せば分かる」と語ったといわれている。将校は「問答無用」(もんどうむよう)と答えてから犬飼を殺害したらしい。]]
このころ(1932年)、日本政府は満州の問題を、中国との話し合いで解決しようとしていた。首相の犬養毅は、満州国の承認には反対していた。しかし1932年の5月15日、日本海軍の一部の青年将校らが総理官邸に乱入して、首相の'''犬養毅'''(いぬかい つよし)を殺す事件をおこした。この一部の海軍軍人が首相を殺害した殺人事件を <big>'''五・一五事件'''</big>(ご・いちご じけん) と言う。
 
しかし、この間にも、満州では陸軍が占領地を拡大していき(熱河作戦、ねっかさくせん)、こうして日本は国際的な信用をうしなってしまい、日本は国際的に孤立していき、ついに日本は1933年(昭和8年)3月に'''国際連盟から脱退'''した。
 
なお、ドイツも翌1934年に国際連盟を脱退する。このように主要国である日本とドイツが脱退してしまったので、国際連盟は紛争の調停の場所としての役割が弱まってしまう。
 
ただし、日本が国際連盟から脱退したとはいっても、この時点では、アメリカやイギリスとの外交は続けており、貿易もアメリカむけを中心に日本は貿易をしていた。
国際連盟では満州国建国の自発性が否定されたとは言っても、満洲国は日本以外にも、いくつかの国家から国家として承認を受け、外交関係が結ばれた。
 
:※参考 国際連盟では満州国建国の自発性が否定されたとは言っても、満洲国は日本以外にも、いくつかの国家から国家として承認を受け、外交関係が結ばれた。のちにドイツやイタリアが満州国を承認(しょうにん)したほか、フィンランドやタイやクロアチア、スペインやバチカン、デンマークをはじめ20か国が満州国を承認した。
 
:※参考 また、日本と中国とのあいだで、1933年5月には停戦協定がむすばれ、満州事変は、ひとまずは、おわった。
 
※参考 現代の評論家の一部には、1931年の満州事変から、1945年の第二次世界大戦の終わりまでの15年間を、「15年戦争」(じゅうごねん せんそう)などと言う評論家もいるが、実際にはこの15年間には停戦期間などもあるので、歴史学的には「15年戦争」という解釈は、あまり受け入れられていない。また、学校教育では「15年戦争」の語は用いられない。
 
さて、建国後の満州国は、日本からの投資もあり好景気になって経済や工業が発展していき、工業国になっていき、満州では自動車なども生産できるようになった。当時は世界恐慌の影響がある時代だったが、日本では、国策(こくさく)による満洲関連の投資や、軍需産業への投資などが始まり、日本では、あらたに成長する新興(しんこう)の財閥(ざいばつ)があらわれた(いわゆる「新興財閥」)
現代の評論家の一部には、1931年の満州事変から、1945年の第二次世界大戦の終わりまでの15年間を、「15年戦争」(じゅうごねん せんそう)などと言う評論家もいるが、実際にはこの15年間には停戦期間などもあるので、歴史学的には「15年戦争」という解釈は、あまり受け入れられていない。また、学校教育では「15年戦争」の語は用いられない。
(※ 新興財閥についても、中学の範囲。帝国書院の教科書に記述あり。)
 
しかし農村では、ひきつづき不景気が続いていた。
 
さて、建国後の満州国は、日本からの投資もあり好景気になって経済や工業が発展していき、工業国になっていき、満州では自動車なども生産できるようになった。
 
日本政府は満州を「王道楽土」(おうどう らくど)「五族協和」(ごぞく きょうわ)などと宣伝した。また、満州を開拓するための満蒙開拓団などを募集したので日本から多くの移住者が満州に移り住んだ。そのほか、朝鮮や中国など周辺の地域からも多くの者が満州に移住した。
犬養の後継の首相は、軍隊出身の元・海軍大臣で穏健派の斉藤実(さいとう まこと)首相になったが、それでも軍隊の暴走は収まらなかった。斎藤実の政府は満州国を承認したが、それでも軍隊内の強硬派は議会への不満が収まらなかった。
 
斎藤実の政府は満州国を承認したが、それでも軍隊内の強硬派は議会への不満が収まらず、斎藤内閣は反対派の陰謀とも噂される疑獄事件(ぎごくじけん)により倒れ、1934年同じ海軍出身の岡田啓介(おかだ けいすけ)が首相に就任し組閣した。
ついに陸軍の青年将校の一部が、1936年2月26日に兵数1400人ほどの部隊を率いて反乱を起こし、首相官邸や警視庁などを遅い、大臣らを殺傷し、首相官邸などを占拠した。首相の斎藤実は、反乱軍によって殺害された。
 
そのような中、ついに陸軍の青年将校の一部が、1936年2月26日に兵数1400人ほどの部隊を率いて反乱を起こし、首相官邸や警視庁などを遅い襲って(おそって)、大臣らを殺傷し、襲った。首相官邸などの岡田啓介は一命占拠しとりとめものの、前首相の斎藤実と蔵相の高橋是清(たかはし これきよ)は、反乱軍によって殺害された。
 
反乱軍は、反乱をおこなう名目として、日本の不況や国難の原因を政党と財閥による腐敗政治だと唱え、天皇中心の革命をかかげた。だが、天皇は反乱を認めずに、正式の軍隊に反乱軍の鎮圧を命じた。
 
反乱軍は名目として、日本の不況や国難の原因を政党と財閥による腐敗政治だと唱え、天皇中心の革命をかかげた。だが、天皇は反乱を認めずに、正式の軍隊に反乱軍の鎮圧を命じた。
 
この反乱は、正式の軍隊によって鎮圧された。
 
また、議会でも国際協調路線の政治家の発言力が弱まっていく。軍部内でも、外国に対して強硬的な方針の者の発言力が強まり、国際協調などの路線の発言力は弱まっていく。
 
 
そして、軍部に反する言論が取り締まりを受けることになっていった。
 
 
大正デモクラシーの自由主義的な風潮から一転して、昭和初期の日本では、議会の制度はあったものの、しだいに、まるで軍部の支配する国のようになっていく。
 
== ワシントン体制の崩壊 ==
日本は、ワシントンの軍縮条約、ロンドンの軍縮条約を、アメリカやイギリスと結んでいたが、1936年に軍縮条約が期限をむかえるのに合わせ、軍縮条約を破棄してしまう。こうして、日本は軍備を増強していく。いっぽう、英米の主導する国際社会からは、日本は孤立していく。
 
なお、国際連盟からは、日本とドイツはすでに脱退している。
 
こうして、第一次大戦後の国際体制の「ワシントン体制」は崩壊(ほうかい)していった。
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