「中学校社会 歴史/日本の開国」の版間の差分

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万延小判
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:国内で品物が不足し、物価が上がりました。輸出によって、国外に品物を多く輸出し過ぎたり、買い占めなどが起こったからです。貿易をしていない米や麦の値段も上がりました。
:貿易によって、日本の金が流出しました。このため、幕府は金貨の質を下げたので、ますます物価は上がりました。
 
また、金銀の交換比率が、日本と欧米でちがっており、日本では金銀の交換比率が1:5なのに対して、外国では1:15であった。外国人がこの比率の差を利用して、日本に多くの銀貨をもちこんで、日本の金を買って交換したので、日本から多くの金が流出した。
[[画像:Shin-koban.jpg|thumb|right|200px|万延小判]]
その後、幕府は小判を改鋳して小さな小判をつくることで(万延小判、まんえんこばん)、交換比率を国際的な比率に近づけさせて、金の流出をふせいだが、小判の価値が低下したため物価の上昇が起きた。
 
このような品不足や物価の上昇などにより、庶民のくらしは苦しくなっていきました。そのため 一揆(いっき) や 打ち壊し が起きました。
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[[ファイル:Sakamoto Ryoma.jpg|thumb|200px|left|坂本龍馬(さかもと りょうま)<br />]]
薩摩と長州は、過去の歴史的な関係から、両者は対立をしていました。薩摩藩も長州藩も、どちらとも近代的な軍隊を持ち幕府を倒そうとする改革を目指していたのに、両者は対立していました。
しかし、1866年に、土佐藩(とさはん、高知県)の浪人<big>'''坂本龍馬'''</big>(さかもと りょうま)が両藩の仲立ちをして同盟を結ばせ、薩摩藩と長州藩との同盟である<big>薩長同盟</big>(さっちょう どうめい)が1866年に結ばれました。
 
幕府は、薩長同盟を倒すため長州と戦争をしましたが、幕府の征伐は失敗に終わりました。