「Wikibooks:編集方針」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
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この過程の間、ページは、草稿あるいはノートと小さな事実の集積物にすぎないように見えるかもしれません。このみっともなさにあきれるのではなく、その可能性を楽しみにし、編集の過程を通じてそれが秀逸な文書に変わることを信じるべきです。もちろん、そうすることが好きでなくてもよいのです。時には、本当に低水準の作品に対しては、それを単に直すだけでなく、批判することもよいでしょう。しかし最も大事なことは、それが直せる限りは直すと言うことです。望み薄の文章については、目障りな記事を対応する[[w:Wikipedia:ノートページ|ノートページ]]に移動したり、明らかに救いようのない記事は何でもすぐに削除する慣例になっています。ただし、後者は軽率に行うべきではありません。
== 教科書を書くということ ==
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ある事柄の解説をすることだけに重点が置かれ、それが体系のどこにあるのか見えない記事や、あるいは内部が整理されておらず事実や意見の羅列のみで体系的になっていない記事は、教科書とは言えません。また、ここで目指しているのは百科事典を書くことでも、辞書を作ることでもありません。単なる言葉の言い換えのリストであったり、ある事柄の詳細に関する百科事典的記事はここウィキブックスで作る必要はありません。たとえば[[w:|ウィキペディア]]や[[wikt:|ウィクショナリー]]へのリンクを挿入すれば十分でしょう。しかし、そのようなページが体系立った教科書を作る上で必要不可欠という場合には、それを体系の中に組み込むこともできます。
== 編集スタイルについて ==
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どの程度大胆に編集するかという点についても、編集スタイルに違いがあります。一般に、多くの人が[[w:Wikipedia:ページの編集は大胆に|ページの編集は大胆に]]するべきと考えています。事実上、何か変更する前には必ず前の著者に相談する必要があると考えている人はおりませんし、そう考えているとしたら、執筆や推敲は遅々として進まないでしょう。反対に、とにかく、遠回しな言い方はすべきではなく、何か問題を見つけたらどのように編集するか話し合うよりも、単に直接ページを編集するほうがよいと考えている人もいます。この観点では、議論というのは最後の手段です。より中間の考え方として、議論は議論として尊重するが、同時に、早めに微修正をすることで議論の応酬を避けることができるというものもあります。この観点は、抜本的な編集をするべきか否かは時と場合によるというものであり、十分に合理的だと思われます。繰り返しになりますが、ウィキブックスではこれらの姿勢すべてを受け入れています。
大規模な削除や置き換えは、元の著者がやる気をなくして投稿をやめてしまわないように、ノートで提案しておく方がいいかもしれません。ある人にとっての改善は、他者にとって冒涜になりますし、事前の警告なしに自分の仕事が水泡に帰すのを喜ぶ人はいないのです。
* [[Wikibooks:著作権|著作権侵害]]▼
ですから、何が何でも、情報は保存するよう努めて下さい。文章の一部でも除去するときは、以下の理由に該当するものにして下さい。
* 重複
* 関係のない内容
* [[w:Wikipedia:無意味な記述|無意味な記述]]
▲* [[Wikibooks:著作権|著作権侵害]]
除去する代わりにできることには次のようなことがあります:
* 内容を保ったまま、言い換える
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