第一課でみたように,ヘブライ文字はすべて子音文字であって,ローマ字の A, E, I, O, U のような,母音専用の文字を持っていない. もちろんヘブライ語にも,他のすべての言語と同様,母音はある.ただ文字でそれを一々表記しないだけである. しかし,隣接した母音に同化しやすい声門音ないし半母音をしめす, י, ו, ה, א の 4 文字は,かなり早い時期から,事実上母音の音価をも持つに至っていた(日本語ホホ《頬》hoho が hoo となり,アヲ《青》awo が ao となった現象を参照). いずれにせよ,紀元 1 世紀末にユダヤ教伝承学者の手によって確定された聖書本文で,これら 4 文字が母音字として用いられている場合は多いのであるが,その表記方式はいくつもの欠陥を備えていた. すなわち
(1) 同一文字が子音・母音の二重の音価をもっていること,例えば און 'āwen の ו は w を表すのに対し, אור 'ōr の ו は ō を表す.
(2) 母音としての音価も一つだけでないこと.例えば前出の אור は ūr とも読める.
(3) 逆に同じ母音が別々の文字で表されることもあること.たとえば לא と לו はどちらも lō と読まれる.
(4) 同一の語でありながら,母音字を用いた表記―いわゆる「完全表記」scriptio plena ―と,そうでない「不完全表記」scriptio defectiva とがあること. 例えば《ダビデ》は完全表記(もっともこの場合 i に関してだけのことなのだが)の דויד と不完全表記の דוד が共存している.そしてこのこととも関連して,
(5) すべての母音が表記されるのではないこと.例えば上に挙げた例では, און 'āwen の e, דויד dāwid の ā はいかなる場合にも表記されていない.