11.6 יֵשׁ אֵין
יֵשׁ は「存在」を意味する語で、述部の働きをし、その主部をなす名詞句によって表されたものが現に存在することを示す。しかし文法的にみて動詞ではなく、過去とか未来といった時制の意味を含まず、発話の時点において存在することを言うだけだから、「ある、いる、存在する」のように訳する他はない。聖書では会話とか、一般的真理を述べる知恵文学に多く現れるのも、そのためであろう。この点で、יֵשׁ を含まない名詞文、例えば 文2 が、過去の物語の文脈におかれていればそれに依存して、「…大きな石があった」と訳さなければならないのとは、事情を異にする。
יֵשׁ に対し אֵין はその否定、すなわち「非存在」を意味する。יֵשׁ を אֵין に置き換えると、存在の否定を表すわけである。
名詞文の述語として機能するが、一般の名詞のように性・数・定―不定に関して変化することはない。例えば
יֵשׁ מֶ֫לֶךְ《ある一人の王がいる》
יֵשׁ בַּ֫יִת《ある一軒の家がある》
יֵשׁ נַעֲרָה《一人の若い女がいる》
יֵשׁ מְלָכִים《何人かの王がいる》
יֵשׁ עֵצִים《何本か樹がある》
אֵין מֶ֫לֶךְ《一人の王もいない》
אֵין נָשִׁים《女たちはいない》
אָכֵן יֵשׁ יהוה בַּמָּקוֹם הַזֶּה《本当にこの場所にはヤハウェが居給う》
אֵין מֶ֫לֶךְ לָנוּ《我々には王が無い》
聖書に אֵין は 800 回近く現れるのに対し、יֵשׁ は 140 回しか現れない。存在するということは、מֶ֫לֶךְ לָנוּ《我々には王がある》のように יֵשׁ なしでも表されるけれども、存在しないということは אֵין 以外に表現の方法が無いからである。