わたしは荒野であなたを知った

編集

אֲנִי יְדַעְתִּיךָ בַּמִּדְבָּ֑ר

編集

ホセア書135

‏ אֲנִי ‎ 人称代名詞一人称単数「わたしは」。‏ אֲנֹכִי ‎ 'anōḵī も「わたしは」。両者はほとんど区別なく用いられる。語源的には、後者は、前者の古いセム語形 'anā に、やはり古いセム語の一人称単数語尾 -kū がついて出来た 'anākū から来ている、と考えられている。ヘブライ語では、他のセム語と同様、動詞の形で主語がわかるのだから、「わたしは」を加えると、強調になる。

‏ יְדַעְתִּיךָ ‎ ‏ יָדַע ‎ yāda`「知る」、「知っている」のカル一人称単数完了形 ‏ יָדַעְתִּי ‎ yāda`tī(‏ע‎のシェワーは無音)「わたしは知った」に、動詞につく二人称単数男性語尾代名詞 ‏ ־ךָ ‎「あなたを」が添えられた形。 ‏ יְדַעְתִּיךָ ‎ の ‏ יְ ‎ のシェワーは、‏ יָדַ֫עְתִּי ‎(‏־֫‎ はアクセントの位置)のアクセントの位置が、接尾代名詞が付いて一音節ふえたため ‏ תִּי ‎ に移り(‏ יָדַעְתִּ֫יךָ ‎)、その結果、‏י‎ の母音が弱体化したからである。「知った」とは、この場合「あなたをえらんで、あなたに心を砕いた」というような意味である(アモス書32参照)。男女関係で用る「知る」(創世記41)という意味がここには比喩的に用いられている、と考える研究者もいるが、その必要はないだろう。

‏ בַּמִּדְבָּ֑ר ‎ 前置詞 ‏ בְּ ‎「‥‥で」に ‏ הַמִּדְבָּר ‎(‏ מִדְבָּר ‎ +冠詞 ‏ הַ ‎)「(かの)荒野」がつき、弱い子音 ‏ה‎ が落ちた形である。bə + hammidbār > bammidbār。

ヤハウェの民としてのイスラエルの出発となった出エジプト後のシナイの荒野の彷徨及びシナイ山での神との契約のことが言われている。