高等学校世界史B/アメリカの覇権と冷戦の展開

国際連合 編集

世界恐慌の後、欧米主要国はブロック経済を推し進めた。そのようなブロック経済が国家間の対立を生んで戦争の一因になったという反省にもとづき、第二次大戦期の終盤ごろから、戦後の国際経済のありかたが国際会議で話し合われた。

1944年にアメリカのブレトンウッズでの国際会議が話し合われ(ブレトンウッズ会議、ブレトンウッズ合意、Bretton Woods Agreement)、それらの会議などにより、自由貿易が推進され、また国際的な経済の安定化のため国際通貨基金(IMF、1947年〜、International Monetary Fund)や国際復興開発銀行(IBRD、1946年〜、International Bank for Raconstructuion)が設立された。

また、関税及び貿易に関する一般協定(GATT、「ガット」、1948年発効、General Agreement on Tariffs and Trade)では関税の引き下げなどの自由貿易が目指された。このような第二次大戦の経済秩序をブレトン・ウッズ体制またはIMF=GATT体制という。

敗戦国の民主化 編集

 
ニュルンベルク裁判の被告席
被告席にいるのはナチス=ドイツの指導者たち。 戦勝国が敗戦国ドイツの指導者たちを裁いた。被告人22人のうち12名に死刑判決が下された。

敗戦国のドイツと日本では、戦勝国の行う裁判によって、ドイツと日本の戦争指導者たちが裁かれた。

ドイツではニュルンベルク国際軍事裁判、日本では極東国際軍事裁判(東京裁判)が行われた。

そして、従来の戦争犯罪(捕虜虐待など)による罪を問うのに加え、新たに加わった「平和に対する罪」によって、裁かれた。

ニュルンベルク裁判では、ナチスの指導者たちが裁かれた。(※ 検定教科書がこういう言い方をしてるのは、たとえ国際法違反をしたドイツ軍幹部でも、ナチス出身でなくドイツの名門エリート軍学校出身の軍人だった連中(エーリッヒ・フォン・マンシュタインやグデーリアンなど)は軽い罰だったから。)

しかし、戦勝国による戦争犯罪については、これらの裁判では問われなかったので、当時から有識者には「不公平」な裁判だと問題視されていた。

冷戦 編集

第二次世界大戦後、東ヨーロッパ諸国の多くにはソ連が進駐し、まもなく東ヨーロッパに社会主義国が多く誕生した。

アメリカ・イギリスは、このような東ヨーロッパの状況を、ソ連の侵略としてとらえて警戒した。この米ソの対立を冷戦(Cold War [1])という。また、イギリスの前首相チャーチルは冷戦について、1946年、ソ連が「鉄のカーテン」を降ろしてヨーロッパを分断しているとして、ソ連を批判した。

アメリカは1947年に共産主義国を封じ込める目的でトルーマン-ドクトリン(Truman Doctrine [2])を発表した。 また、西側諸国を経済援助する計画のマーシャル-プラン(Marshall Plan [3])を発表し実施した。


1948年6月、西側がソ連抜きでドイツの通貨改革をしたことに反発し、ソ連は西ベルリンへの交通路を遮断した(ベルリン封鎖)。しかし西側は空輸で物資を輸送して対抗した。

1949年、東側(ソ連側)は、東側圏内の経済協力機構としてコメコン(COMECON、経済相互援助会議)を設立した

いっぽう、1949年5月、英米仏を中心とする西側諸国は、軍事同盟的な国際機構として、北大西洋条約機構NATO、「ナトー」と読む)を設立した。

なお1945年、ソ連はベルリン封鎖の失敗をみとめ、1945年5月にソ連はベルリン封鎖を解除した。そして同1945年の秋に、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)およびドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立した。


南アジア諸国の独立 編集

イギリスは大戦で疲弊し、植民地を維持する力を失っており、またイギリス本国で植民地の維持のための軍事費などの負担が問題視されたこと等の理由から、イギリスは植民地の独立には協力的になった。

しかし、インドでは現地のアジア人たちが、独立後の国の方針や宗教上の方針をめぐって、(現地アジア人どうしで)対立した。全インドの統一を重視する国民会議派のガンディーおよびネルーらと、一方、ジンナーひきいるムスリム国家の分離独立をもとめる全インド=ムスリム連盟が対立した。

そして、ひとまず、1947年に、ヒンドゥー教徒の多いインド連邦と、ムスリムの多いパキスタン共和国に分かれて、ほぼ同時にイギリスから独立した。

その後、ヒンドゥーとムスリムの対立が激化し、武力衝突した。融和を説くガンディーは、急進派ヒンドゥー教徒によって暗殺されてしまった(1948年)。

パキスタンは当時、インドを挟んで東西に領土をもってたが、東パキスタンがパキスタンからの独立をもとめるとインドはこれを支援し、1971年にインドは西パキスタンに侵攻し、1971年に東パキスタンはバングラデシュとして独立した。

インドとパキスタンは、カシミール地方の帰属をめぐって、たびたび武力衝突し、


東南アジア諸国の独立 編集

1945年、ホーチミンはベトナム人民共和国の独立を宣言したが、宗主国フランスはこれを認めず、ベトナムにフランス軍を派兵し、インドシナ戦争になった。

フランスは49年、げん朝の旧皇帝バオ=ダイをたて、ベトナム国を樹立したが、54年にティエンビエンフーの戦いでフランスは敗北し、ジュネーブ休戦協定を結んでフランスはインドシナから撤退した。

結果、ベトナムは北緯17度線を基準にして、北側がベトナム民主共和国、南側がベトナム国となった。こうしてベトナムは、南北2つの国家に分裂した。


(アメリカ植民地の)フィリピンについては、戦前からの独立の約束どおり(太平洋戦争によって少し遅れたが)、アメリカは1946年にフィリピンの独立を認めた。


(オランダ植民地の)インドネシアでは、日本の敗戦直後の1945年8月17日にスカルノが独立を宣言したが、宗主国オランダは独立を認めず、戦争になった。4年あまりの独立戦争のすえ、1949年にインドネシアは独立を認めさせた。

(イギリス植民地の)マレー半島では、ひとまず1948年にイギリス領マラヤ連邦が成立し、1957年に独立国の「マラヤ連邦」となり、63年に独立国のマレーシアになった。その後、中国人の多いシンガポールが1965年にマレーシアから分離独立した。


冷戦中の国際情勢 編集

東南アジア方面 編集

ベトナム周辺 編集

1960年、アメリカの支援する南ベトナムでは、反政府組織の南ベトナム解放民族戦線が結成され。北ベトナムの支援を受けてゲリラ戦を展開した。

(※ なおゲリラ戦は、国際法違反である。理由は、非戦闘員の一般人が、戦闘員に間違われて巻き込まれる可能性があるため。よって、彼らは国際法違反のテロ集団でしかない。)

65年、アメリカは南ベトナムを支援する目的で、北ベトナムへの爆撃にふみきり(北爆)、南ベトナムにも兵数50万人を超える大軍をおくって支援した。(なお韓国軍も、アメリカ側として、ベトナム戦争に派兵され参戦している。)

しかし、ソ連や中国が北ベトナムを支援したので、選局は膠着し、泥沼化した。こうして、ベトナム戦争は、本格化していった。

戦争中、アメリカは、ゲリラ側とみなした村を焼き払うなどした。これがマスコミ報道などによって、世論から非難された。西側のマスコミは偽善者なので、ゲリラ側のテロ行為は批判せず、アメリカ軍の行動を一方的に避難し、国際世論はアメリカに批判的になった。(なお、東側のマスコミは、単なる、政府に都合のいい宣伝機関である。)

アメリカは国内外の反戦的な批判にたえられず、1973年、アメリカ軍はヴェトナムから撤退した。

そして、戦況は北ベトナム側に有利になり、北ベトナムが75年には南ベトナムの首都サイゴンを攻略し、戦争は終結した。

こうして、ベトナム戦争は、北ベトナムの勝利で終わった。


さて1976年、カンボジアではポル=ポトが政権をにぎり共産主義政策を行ったが、独裁者のポルポトは、空想的な共産主義理念のもとに、自国民(カンボジア国民)の大虐殺を行った。知識人階級を中心にねらい、ポルポト政権は虐殺を行った。

そしてカンボジアは、たびたび隣国のベトナムに侵攻した。

ベトナムは反撃し、1979年にベトナムはカンボジアに攻め込み、ポルポト政権を倒した。

中国はカンボジアのポルポト政権を支持していたので、1979年、中国はベトナムに侵攻した(中越戦争)。(トウ小平 の時代)

また、中越戦争で戦闘しあってる中国とベトナムは、両国とも社会主義国であるので、「社会主義国どうしは戦争をしない」とかいった幻想は崩壊していった。

※ なお、ポルポトの虐殺により、日本人も犠牲になっている。当時、アンコールワットの修復などの目的でカンボジアに滞在していた専門家などの日本人が数十名、知識人だとして虐殺された。(清水書院の『歴史総合』より)

ソ連の外交 編集

1953年にスターリンが死亡すると、ソ連は外交政策を見直して、アメリカに歩み寄ったフリを見せるようになり、 1955年には米ソ英仏の4か国首脳によるジュネーブ巨頭会談が開かれた。

そして56年にソ連はコミンフォルムを解散した。

しかし、実際には、ソ連は覇権を崩すつもりはなかった。

1956年にポーランドとハンガリーで、反政府運動が起き、新政権が樹立した際には、ハンガリーの新政権は、ソ連からの脱却を表明したが、ソ連軍に侵攻され、ハンガリーの独立は失敗した。また、新政権の指導者ナジは処刑された。

また東ドイツでは、1950年代から西ドイツに脱出する人が増えたので、1961年に東ドイツ政府はベルリンの壁を築いた。

またソ連は、キューバ革命後のキューバにミサイル基地を建設して、アメリカを挑発した(キューバ危機(Cuban Missile Crisis [4]))。

しかしアメリカが譲歩せず、ミサイル撤去をもとめて海上封鎖を行ったため、ソ連は譲歩してアメリカの要求を受け入れた。

その後、米英ソの3国が、1963年に部分的核実験禁止条約(Partial Nuclear Test Ban Treaty [5])に調印した。(これは単に、地下核実験以外の核実験を禁止するだけである。核保有は禁止しないし、地下核実験も禁止しない。)また、米ソの首脳どうしが電話で直接的に意見交換する「ホットライン」も、この63年に設置された。

1970年代後半、アフガニスタンは内戦状態にあり、親ソ連勢力やイスラム勢力が争っていた。 1979年にソ連はアフガニスタンにいる親ソ連勢力を軍事援助するために、ソ連はアフガニスタンに侵攻した。

これにより、米ソの緊張は高まり、アメリカは軍事費を増大するなどして対応した。


なお。翌1980年にはモスクワ・オリンピックが開催されたが、西側諸国の多くは、ボイコットをした。(ここでいう「ボイコット」とは、ソ連開催の行事に参加をしないことで、ソ連の行動に反対であるという意志を表明すること。)

アメリカの情勢 編集

1950年代から東西冷戦が深刻化していくと、アメリカ国内政治では、「アメリカ国内に、既にソ連のスパイが入り込んでいるのは?」という不安が高まり、マッカーシー上院議員を中心にして、反共産主義の活動が活発化し(「赤狩り」、マッカーシズム)、共産主義者とみなされた政治家や知識人が批判されたり失脚していったりした。 1980年代にアメリカの財政は悪化し、財政赤字と貿易赤字のため「双子の赤字」と言われる。原因はいろいろ考えられるが、一因として、アフガニスタン侵攻に対応する為に軍事費が急増している。

貿易赤字の原因については、ドル高による貿易の不振などもあるだろう。また、日本などによる、新興工業国の成長により、アメリカ経済が不振になったのかもしれない。

1987年のプラザ合意は、ドル高を是正するのが目的である。

ソ連・東欧の情勢 編集

1956年にポーランドとハンガリーで、反政府運動が起き、新政権が樹立した際には、ハンガリーの新政権は、ソ連からの脱却を表明したが、ソ連軍に侵攻され、ハンガリーの独立は失敗した。また、新政権の指導者ナジは処刑された。

1960年代に入った頃になると、ソ連の経済は低迷し、しだいに、共産主義の失敗が明らかになってきた。

そして1968年、チェコスロバキアで、自由化と資本主義的な経済改革を主張する新政権が登場し、「プラハの春」と言われたが、ソ連は自国および周辺国への波及をおそれ、東ドイツなどワルシャワ条約機構の軍とともに軍事介入し、チェコスロバキアの民主化運動を弾圧した(チェコ事件)。


中国とソ連 編集

ソ連では1953年にスターリンが死んで、後継の権力者のフルシチョフがソ連の権力をにぎり、フルシチョフらがスターリン批判を開始し、スターリン政権時代の大量粛清などの悪行を批判した。

なお、ここでいう「粛清」とは、スターリンのような独裁者が、反対派を処刑したり弾圧することである。


そしてフルシチョフひきいるソ連が、反アメリカ的な態度をゆるめると、中国はソ連を「修正主義」だと批判した(中ソ論争)。(社会主義者のなかでは、「修正主義」という用語は批判的な意味で用いられる。)

「大躍進政策」の失敗 編集

検定教科書には、下記のような感じで書いてある。

1958年、毛沢東は大躍進政策を指示して、中国各地に人民公社をつくらせたが、失敗した。

実態は、農業や工業の知識のない毛沢東たちが、これら実業の実務に口出しをしたせいで、さんざんたる結果に終わったのである。

一例として、毛沢東が「農業では、スズメが稲を食べあらすので、ならばスズメを駆除して減らせば、農業生産が増えるだろう」と考えたが、スズメなど野鳥の退治を中国全土に命令した。しかし結果は、イナゴなど、それまではスズメなどの野鳥に食べられていた虫が増えたせいで、イナゴなどに稲は食べ荒らされ、ますます農業生産は減ったという。

検定教科書では「凶作」が失敗の原因だと言っている教科書もあるが、その「凶作」とやらの実態は、上述のような実態であろう。実態は、毛沢東の頭のなかの、理系学問の知能が、凶作らしい。


なお北朝鮮でも、類似の失敗があった。北朝鮮の指導者は「田畑で、苗(なえ)を植える密度を三倍にすれば、生産も3倍になる」と考えたが、しかし収穫物の栄養不足によって、むしろ農業生産は減ったという。

その他、彼らは「山林を切り開いて、田畑として開墾すれば、農業生産が増えるだろう」と考え、実行したが、しかし山林の減少によって、洪水や土砂くずれを招く結果に終わったという。


中国では、大躍進政策の失敗により、毛沢東は失脚した。しかし、北朝鮮では金日成は失脚せず、しばらく北朝鮮の農業の混乱は深まった。


なお、中国などでは人口政策として、当時は「人口を増やせば、農耕業の生産量も増えるし、軍隊の兵士も人数が増えるので、国が強くなる」のような幻想を考えていたので、人口増加政策の最中なのに凶作が起きてしまい、さんざんたる結果になる。

なお、中国が「一人っ子政策」を言い出したのは、大躍進政策よりも後の時代であり、1970年代後半ごろから「一人っ子政策」を言い出したである。(ウィキペディア『一人っ子政策』の記事によると、じつは60年代の大躍進政策の頃から、既に統計調査により、農業生産に対して人口が多すぎるという危惧が発見されてたらしいが、黙殺されたらしい。反政府的とみなされ、弾圧させられ、人口問題の提起をしようとしていた研究者は失脚していったらしい。)

文化大革命 編集

1959年、劉少奇(りゅうしょうき)が政権につき、大躍進政策を見直したが、しかし66年に復帰をはかる毛沢東が文化大革命を起こした。

この文化大革命では、毛沢東に中世を誓う学生などを動員して「紅衛兵」(こうえいへい)を結成し、毛沢東に批判的な党幹部や知識人を批判させた。:(※ 学生は、生産現場の実務オンチで世間知らずだから、同じく(生産現場について)実務オンチの毛沢東にとっては扱いやすい。)

そして劉少奇ら党幹部を失脚させ、また、知識人を弾圧した。

アフリカの連帯 編集

アフリカで第二次世界大戦の前から独立しているのは、わずかにリベリアやエチオピア、南アフリカだけだった。

1955年、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議が開催され、参加国としてインド・中国・エジプト・インドネシア・日本など、日本をふくむ29ヶ国があつまり、帝国主義の植民地支配に反対することが決められ、また平和共存をうったえた。反帝国主義・平和共存の「平和10原則」(へいわ じゅうげんそく)が宣言された。

そして1960年にアフリカで一挙に17か国が独立し、1960年は「アフリカの年」と言われた。


その後、1961年にユーゴスラビアで開かれた(第1回)非同盟諸国首脳会議には、出席国にラテンアメリカ諸国も加わり、エジプトやインドなど25か国が出席し、東西冷戦のどちらの立場にもならない非同盟の立場を宣言した。そして、アフリカ諸国やエジプトインドなどは「第三世界」と呼ばれた。

そして、1963年にアフリカ諸国は、アフリカの連帯をめざすアフリカ統一機構(OAU。後のアフリカ連合、AUに発展する。)を結成した。

中東戦争 編集

1945年、アラブ諸国はアラブどうしの連帯を強めるため、1945年にアラブ諸国はアラブ連盟を結成した。

この頃、国連はパレスティナについて、アラブ人とユダヤ人とで分割する案を出した。

しかし1948年、ユダヤ人がパレスティナの地え一方的にイスラエルの建国を宣言した。このため、イスラエルと、(イスラエルに反対する)アラブ諸国とのあいだで、第1次中東戦争が起きた。

第1次中東戦争にアラブ諸国はやぶれ、多くのアラブ人が土地を失ったため難民となった。

その後、エジプトでは、1952〜53年にナセル(人物名)ひきいる自由将校団が革命を起こし、王政を倒した(エジプト革命)。

翌1954年にナセルひきいるエジプトは、スエズ運河の国有化を宣言した。

すると、スエズ(運河のエジプト)国有化に反対するイギリスが、フランス・イスラエルともにエジプトに侵攻し、戦争になった。(第2次中東戦争、スエズ戦争) しかし国際世論は、英仏イスラエルのエジプト侵攻を非難し、英仏イスラエルは撤退に追い込まれた。

イラン革命から湾岸戦争まで 編集

21世紀の今では信じられないかもしれないが、1979年より前のイランは、西洋化の進んでいた国であった。

しかし1979年、イスラーム教シーア派が革命を起こし、宗教家ホメイニを最高指導者とするイラン=イスラーム共和国が誕生した(イラン革命)。イラン革命は、それまでの革命とは違い、民主化の革命でもなく、共産主義にもとづく革命でもなく、宗教にもとづく復古的な革命であったので、国際社会を驚かせた。

イラクは、自国への革命の波及を恐れ、1980年にイランに侵攻し、イラン=イラク戦争が始まった。

そして、イラン=イラク戦争では、アメリカやソ連も革命の波及をおそれたため、米ソはイラクに軍事援助した。

イラン=イラク戦争は88年まで続いた。

その後の1990年、イラクが隣国クウェートに攻め込み、国連ではイラクへの武力行使を容認する決議が可決され、翌1991年には国連重決議に基づいてアメリカ合衆国ひきいる多国籍軍がイラクを攻撃し、イラクを降伏させ、クウェートからイラク軍を追い出した(湾岸戦争)。


なお、第二次石油危機の原因が、同時期のイラン革命である。(第一次石油危機の原因は、中東戦争。 )

※ 政治思想的なこと 編集

「ナショナリズム」について 編集

※ 世界史Bではなく「公共」科目の範囲。

上述のように、アジアやアフリカで、ナショナリズムの考えにもとづいて、独立が行われた。(※ 清水書院の高校「公共」の見解)(※ 第一学習社『現代社会』の教科書でも同様の見解。)

一方、日中や欧米列強などのナショナリズムが、二度の世界大戦を引きおこしたと考える説もよくある。

「ナショナリズム」や民族主義と言う言葉は悪いことのように使われることも多いが、実際の歴史はそう簡単ではない。

妥協点としては、(独立のように)外国からの支配には対抗・抵抗するが、しかし国内の少数民族も尊重しなければならない、といったところか。


歴史的には、フランス革命やその後の動乱、ウェストフェリア条約などを通じて、ナショナリズムによって国家の一体性が確立していき、それが福祉の向上につながっていったという側面もある。(清水書院の高校「公共」の見解)

※ 清水の教科書は言ってないが、たとえば外国の社交相手の同格の貴族よりも、階級は違っていて縁がなくても国内の貧民こそ援助すべきだという考え。

また、ナショナリズムによって、(絶対王政のような意味での)封建制が解体していったのが、少なくともヨーロッパ史での流れである。(清水書院の高校「公共」の見解)

※ 現代語では「国民意識」は良いことに使われる傾向であり、「ナショナリズム」や民族主義は批判的なことに使われる傾向があるが、しかし実態はそう単純ではなく、この二つの用語には似た点もある。アフリカのWW2戦後の独立がその例であろう。できれば高校レベルでは、言葉のイメージだけでなく実態を考えるという、こういう水準まで考えてほしい。(ただし日本の大学入試はアレなので受験勉強には不要だが。)
  1. ^ 橋場弦 ほか監修『WORLD HISTORY for HighScool 英文詳説世界史』、2019年10月15日 第1版 第3刷発行、P.375
  2. ^ 橋場弦 ほか監修『WORLD HISTORY for HighScool 英文詳説世界史』、2019年10月15日 第1版 第3刷発行、P.374
  3. ^ 橋場弦 ほか監修『WORLD HISTORY for HighScool 英文詳説世界史』、2019年10月15日 第1版 第3刷発行、P.374
  4. ^ 橋場弦 ほか監修『WORLD HISTORY for HighScool 英文詳説世界史』、2019年10月15日 第1版 第3刷発行、P.389
  5. ^ 橋場弦 ほか監修『WORLD HISTORY for HighScool 英文詳説世界史』、2019年10月15日 第1版 第3刷発行、P.389