※ 概要

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エリザベス1世は有能だったらしく、このエリザベス1世の時代にイギリスで王権が強大化する。しかし、エリザベスのあとの国王ジェームズ1世が低能だったらしく、国王ジェームズ1世は低能なくせに議会を無視した。

まずエリザベス1世の時代に話を戻すと、エリザベス1世の時代のイギリス国内では、イギリス国教会の教義を、カトリックとプロテスタントの教義を折衷させたものにすることで、イギリス内での宗教対立を押さえた。また、国際的には、以前の海洋覇権国だったスペインの「無敵艦隊」を倒し、のちのイギリスの海洋派遣の基礎を築いた。

※ なお、劇作家のシェークスピアが活躍した時期も、エリザベス1世の統治時代である。

しかし、エリザベスのあとの国王ジェームズ1世が低能だったらしく、議会を無視した。

ジェームズ1世の専政にこまった議会は「権利の請願」(けんりのせいがん、the Petition of Right [1])によって、国王ジェームズ1世に、議会の同意なしの課税をしない事と、法によらない逮捕をしない事を、国王ジェームズ1世に求めた。

しかし、国王ジェームズ1世は議会を無視したようで、ついに反乱が起き、最終的に反乱軍が勝利してジェームズ1世は処刑された。

これが「ピューリタン革命」である。

この反乱軍を指揮したのがクロムウェルであり、革命直後のイギリスを、実質的にはクロムウェルが独裁的に支配した。

しかしクロムウェルの生存中は、イギリス国民はクロムウェルを倒す事はできず、しかたなくイギリス国民はクロムウェルに従い、なのでクロムウェルの死後、さっさと王政を復活させた(王政復古)。

しかし、この王政復古で復活した国王チャールズ2世はカトリック優遇をしたので、イギリス国教徒の不満が増大した。なので議会は、国教徒以外が公職につく事を禁止する法律を制定した。

次の国王ジェームズ2世もカトリックを優遇し、(国民の不満が頂点に達したのか)このジェームズ2世を国外追放し、かわりにオランダ出身のオランダ総督であるウィレム3世をイギリスにまねいてイギリス国王とした。今度の国王のウィレム3世は議会に従ったので、問題は解決した。

これが「名誉革命」(めいよかくめい)である。

ウィレム3世のイギリス国王としての即位は、外交的に見れば、実質的にオランダとイギリスとの同盟を意味する。なぜ、こうなったかというと、当時イギリスはフランスと対立しており、そのためオランダの支援が必要だった。

そして、このウィレム3世が、現在のイギリス政治制度につながる立憲君主制の基礎を築いた。

ウィレム3世が具体的に何をしたかというと、けっして何か特別なことをしたわけでなく、議会の決定にきちんと従っただけである。具体的には、ウィレム3世は「権利の宣言」を承認して、権利の章典として立法化した。こうしてイギリスで立憲君主制が確立した。


なお、イギリスで責任内閣制を確立させたのは、ウィレム3世ではなく、ウィレム3世のあとのアン女王のあとの国王ジョージ1世である。ジョージ1世は40歳すぎになってからドイツに連れてこられた事もあり、首相ウォルポールに政治の実務を任せ、ウォルポールに議会の対応を任せた。

※ (インターネット上のさまざまな記事によると、)このウォルポールがとても有能だったらしく長期政権を20年間にわたって築いた。にもかかわらず、ついに選挙の結果、ウォポールの政権が議会で議席を大幅に減らした時、ウォルポール内閣はいさぎよく退陣したので、それ以降、イギリスの内閣は、議会の議席で反対多数になれば、その内閣は辞任すべき、という慣習が生まれたとされる。
※ 要するに、ジョージ1世とウォルポールが有能であり、現在のイギリス議会でも通用するような責任内閣制の方法を、彼らの時代に築きあげた。

革命前の状況

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イギリスでは16世紀、農村の大地主が経済への影響力を強めてきた。イギリスにおける16世紀ごろの農村などの大地主のことをジェントリ(gentry)という。

また、農村では、それまで共有地とされてきた耕地や牧羊地が、大地主の所有物になる囲い込み(エンクロージャー、enclosure)が行われ、農民が土地を失った。そして、その囲い込みされた農地で、羊毛や毛織物などの生産が増大した。

宗教では、ヘンリ8世がイギリス国教会を設立したが、1553年に即位したメアリ1世がイギリスのカトリックを復活させた。そして、1558年に即位したエリザベス1世が、プロテスタントとカトリックを折衷させた内容になるようにイギリス国教会を改革した。

このエリザベス1世の時代にスペインの「無敵艦隊」をやぶった。

イギリス革命

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エリザベス1世の死後、1603年にジェームズ1世が即位し、ジェームズ1世は王権神授説をとなえ、議会を無視して新税を取り立てた。 このため、国民の反発が起こり、国民は議会を支持した。

そして、1628年に議会から権利の請願(けんりのせいがん)が提出され、議会の同意なしの課税をしない事と、法によらない逮捕をしない事を、国王に求めた。

しかし、一行に国王の政治は変わらず、ついに1642年に反乱が起き内戦に発展した。内戦では、王党派と独立派が対立した。独立派の指導者クロムウェルの統率のもと、独立派の軍隊(「鉄騎隊」)は王党派との戦いに勝利し、1649年に当時の国王チャールズ1世は処刑され、さらに穏健派である長老派を追放し、こうしてイギリスで共和政が樹立した。

このような、1640年ごろからのイギリスでの革命をイギリス革命という。また、ピューリタンが革命に深く関わったとして、イギリス革命のことをピューリタン革命ともいう。


イギリスは、自国経済保護のために、植民地とイギリス本土とを往復する貿易船はイギリス国籍か原産国のものに限るとする航海法を1651年に制定した。この航海法によって、それまで中継貿易をしていたオランダは経済的打撃を受けたので、イギリスとオランダは対立し、1652年にイギリス=オランダ戦争が起きた。

この戦争に対処するためとして、クロムウェルは1653年に終身の護国卿(ごこくきょう)となり、クロムウェルは事実上の独裁者となり、軍事的な独裁政治を行った。

そのためイギリス国民の不満が高まり、クロムウェルの死後は、1660年に先王の子が亡命先のフランスからイギリスに帰国して、その帰国した先王の子がチャールズ2世として迎えられ、イギリスで王政が復活した(王政復古)。

名誉革命

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王政復古でチャールズ2世は王位についた。だが、やがてチャールズ2世は議会と対立し、カトリックを優遇し、また専制政治を行うようになった。

※ チャールズ2世がピューリタン革命中に亡命していた先のフランスは、カトリック勢力圏であり、フランスのルイ14世もカトリック信者である。チャールズ2世のカトリック優遇は、推測だが、もしかしたらフランスとの外交的な関係によるものか?
※ 帝国書院の検定教科書でも、チャールズ2世のカトリック信仰はフランスの影響があると言及している。

議会はこれに対抗して審査法(しんさほう、Test Act)を73年に制定し、国教徒以外の信者が公職につく事を禁じた。 また議会は人身保護法(じんしんほごほう、Habeas Corpus Act)を制定し、不当な逮捕を禁じた。

このころ議会は活発化し、議会の主要な政党は、王権を尊重するトーリ党と、王権に批判的なホイッグ党との、2つの大政党に議会の勢力は分裂した。

そしてジェームズ2世が即位し、ジェームズ2世もまたカトリックを優遇したとして、両党はオランダ総督であったウィレム3世をまねいた。

※ 1672年から1678年にかけてオランダはフランスと戦争をしており、フランスとオランダは敵対関係にあった。つまり、イギリスがオランダ総督を受け入れる事は、事実上はオランダとイギリスによる同盟を意味し、反フランスのための同盟だろう、と解釈できるだろう。

そしてジェームズ2世はフランスに亡命した。

翌89年、ウィレム夫妻は議会がまとめた「権利の宣言」(Declaration of Rights)を承認し、ウィリアム3世とメアリ2世として共同で王位に即位し、「権利の宣言」を権利の章典(Bill of Rights)として立法化した。こうしてイギリスで立憲君主制が確立した。

イギリスのこの事件は、流血をともなわずに議会の権利向上が行われたので「名誉革命」(めいよかくめい、Glorious Revolution)と呼ばれた。

※ なお、ピューリタン革命から名誉革命の一連の政変をまとめて「イギリス革命」ともいう。

ついでメアリの妹アンが即位し、1707年、イギリスはスコットランドを併合し、グレートブリテン王国(Great Britain)が成立した。

1714年、アンが死去してスチュアート朝が断絶したので、アンの遠縁にあたる、ドイツのハノーヴァー選帝侯がイギリス国王として迎えられ、ジョージ1世として即位し、こうしてハノーヴァー朝が開かれた。

ジョージ1世は英語が話せなかったこともあり(※ ジョージ1世は40歳をすぎてイギリスに来た)、議会にはあまり干渉せず、「国王は君臨すれども統治せず」の原則が確立した。そして、ホイッグ党出身の首相であるウォルポール(Walpore)が政治の実務を行うようになり、内閣は国王に対してではなく議会に対して責任を負うとする責任内閣制が確立した。

  1. ^ 『ジーニアス英和辞典 第4版』、大修館書店、第3刷発行 2008年4月1日、P.1446、 petition の項目