高等学校世界史B/イスラーム世界の形成と発展

アラビア半島は砂漠におおわれているが、点在するオアシスを中心に、古代から都市が栄え、農業や商業が発達した。また、その後のギリシャやローマの発展した時代にも、アラビア半島は、ヨーロッパを、インド・中国などと結ぶための、東西の交易路としても栄えた。

しかし6世紀後半、ササン朝とビザンツ帝国とが戦争をし、そのため交易路がとだえた。

イスラーム教の誕生編集

 
メッカのカーバ神殿。イスラーム教の聖地とされている。神殿の中央には、写真のように四角い黒石がある。イスラーム教徒は、このカーバ神殿に向かって礼拝をする。 (サウジアラビア)

7世紀の始めごろ、アラビア半島では、商人が力を持っていた。アラビア半島の都市メッカでは、商業が発達していた。

7世紀はじめごろに、メッカの地に、クライシュ族(Quraysh)の有力商人ハーシム家の家に生まれたムハンマド(Muhammad)が現れ(「マホメット」は西洋での呼称)、彼は若い頃は商人だったが、ムハンマドは40歳の頃に唯一神アッラー(Allah)からの掲示を受けた預言者(よげんしゃ)として自覚し、40歳の頃からメッカで一神教(いっしんきょう)であるイスラーム教を唱えた。(「預言者」とは、神の言葉を預かった者という意味である。未来予知の「予言」ではない。)

しかし、メッカの有力者から、イスラーム教は迫害された。 ムハンマドは、迫害を逃れるため、622年にメディナに移住した。この移住をイスラーム教徒はヒジュラ(hijra、聖遷、せいせん)と読んでいる。

ムハンマドは、教えを広めるため、軍を組織した。そして、630年にムハンマドはメッカを征服した。630年のムハンマドのメッカ征服は、無血開城でメッカに入ったと言われている。

その後、ムハンマドと弟子たちの征服活動によって、アラビア半島の諸国は統一されていき、イスラム教はアラビア半島と北アフリカなどの周辺の地に広まっていった。

イスラーム教の内容編集

イスラムの教えでは、神は唯一であるとしており(神はアッラーのみ)、偶像崇拝(ぐうぞう すうはい)を禁止した。イスラム教の経典は『コーラン』(Quran)(クルアーン)と言う。コーランには、すべての人間は平等だと説かれている。

後世の学者が、イスラーム教徒の義務をまとめたものを六信五行(りくしんごぎょう)という。

イスラームの共同体のことをウンマ(Umma)という。622年のメディナ移住によって、ウンマが樹立したと言われている。

ムハンマドの死後編集

ムハンマドが没すると、アブー=バクルが後継者(カリフ)になった。以後、4代カリフまでを正統カリフという。

そしてムスリムに指導されたアラビア人は、外国へ征服活動を行った。アラビア人は、ササン朝に642年のニハーヴァンドの戦いで勝って、ササン朝を滅ぼした。またアラビア人は、シリアとエジプトからビザンツ帝国を追い払った。

4代カリフにはアリーがついた。

アリーと、シリア総督であるウマイヤ家が対立し、ウマイヤ家のムアーウィヤはウマイヤ朝(Umayya)を樹立した。ダマスクスを、ウマイヤ朝の都とした。

いっぽう、アリーを支持する人は、ウマイヤ朝に反対し、シーア派(Shia)と呼ばれた。 シーア派は、アリーとその子孫だけが、正統なカリフとした。

(いっぽう、シーア派に同調しない他のムスリムはスンナ派と呼ばれる。こんにちでは、スンナ派が多数派をしめる。)

ウマイヤ朝編集

 
ウマイヤ・モスク。8世紀はじめ、ウマイヤ朝の首都ダマスクスに建てられた。現存する最古のモスクである。キリスト教会の一部を転用ていると言われている。
 
コルドバの大モスク(メスキータ)。「円柱の森」といわれる部分。

ウマイヤ朝は領土を拡大し、北アフリカを北アフリカ東西とも征服し、アフリカ西部から海をへて北上してヨーロッパのイベリア半島に侵入した。さらにウマイヤ朝はイベリア半島(いまのスペインのあたり)を征服して西ゴート王国を滅ぼしたが、フランク王国(いまのフランスのあたり)と対立し、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝はフランク王国に敗れ、ピレネー山脈の南に退かされた。

ウマイヤ朝は被征服民に人頭税であるジズヤ(jizya)を課し、また地租であるハラージュ(lharaj)を課した。被征服民がイスラームに改宗しても、これらの課税はほぼそのままだった。

3人のカリフ編集

  • アッバース朝と後ウマイヤ朝

ウマイヤ朝の領土拡大の負担で、負担を押し付けられた被征服民には不満がつのり、また、シーア派もウマイヤ朝に反発した。 このようなことから、ウマイヤ朝への反対運動が起こり、ムハンマドの叔父の子孫であるアッバース家(Abbas)が担がれ(かつがれ)、革命運動が起き、革命が成功して750年にアッバース朝が開かれた。第2代カリフのマンスールは円形の首都バグダード(Baghdad)を新しく造営した。

いっぽう、ウマイヤ家はイベリア半島に逃れ、756年に後ウマイヤ朝を建て、コルドバ(Cordoba)を都とした。

アッバース朝ではムスリムであれば民族の差なく、ジズヤが免除された。しかし、シーア派は弾圧された。また、地税(ハラージュ)が、たとえムスリムでもアラブ人でも、課せられた。

また、官僚の民族には、アラブ人の他にもイラン人が要職についた。

アッバース朝の最盛期は第5代ハールーン=アッラシードのときである。

アッバース朝は751年にタラス湖畔の戦いで唐軍をやぶる。 このとき、捕虜となった唐の兵士に、紙漉き(かみすき)職人がいて、イスラーム諸国に、製紙技術が伝わる。

  • ファーティマ朝

また、シーア派は10世紀はじめにチェニジアにファーティマ朝を建て、969年にはエジプトを征服し、首都カイロを造営した。


これら3つの王朝の最高権力者は、アッバース朝もウマイヤ朝もファーティマ朝も、最高権力者が3人ともカリフを名乗ったので、イスラーム世界は3人のカリフが並び立つ、分裂状態となった。

その後、さまざまな王朝ができた。

(タイトル未定)編集

9世紀に中央アジアのアム川流域地帯でイラン系イスラーム国家のサーマーン朝が建国した。 10世紀にトルコ系国家のカラ=ハン朝がサーマーン朝を滅ぼした。

いくつかのイスラームの王朝は、トルコ人奴隷を多く兵士として抜擢してマムルーク(mamlik)と呼ばれる親衛隊としたが、その結果、トルコ人が軍事や行政で権力をにぎるようになり、アラブ人の権力が低下した。

946年にブワイフ朝がバグダードに進出し、カリフから委任を受けて統治。ブワイフ朝では、軍人が給与のかわりに土地の管理を任せらえ、軍人に土地の徴税権が与えられるというイクター制(Iqta)が、導入されていた。のちに、他の王朝も、これにならった。

1055年にはトルコ系のセルジューク朝がバグダードに進出し、スルタン(Sultan)の称号をさずけられる。

またセルジューク朝は、シリアやアナトリアにも進出した。これがビザンツ帝国を圧迫したので、のちに、キリスト教諸国による十字軍遠征の原因の一つになる。

エジプトのイスラーム編集

 
サラディン。イラク出身のクルド人。異教徒も公正にあつかい、ヨーロッパでも名君として知られる。

11世紀末、第1回の十字軍がシリアに侵攻し、イェルサレムが占領される。 エジプトでは、1169年、クルド人のサラディン(Saladin)(正確には「サラーフ=アッディーン」)が、ファーティマ朝を滅ぼして、1169年にスン二派のアイユーブ朝(Ayyub)を樹立した。

サラディンは、十字軍に対抗することをとなえた。

1187年、アイユーブ朝は十字軍との戦いになり(第2回十字軍)、アイユーブ朝は十字軍をやぶり、イェルサレムを奪回する。

エジプトでは、アイユーブ朝が、1250年にマムルークによるクーデターによって倒され、マムルーク朝が樹立した。そしてアイユーブ朝は、それまでモンゴル軍がシリアに侵入していたが、モンゴル軍をやぶる。

北アフリカ・イベリア半島のイスラーム編集

11世紀なかば、北アフリカの西サハラの先住民ベルベル人のあいだで、イスラーム経への改宗が急にすすむ宗教運動が起きた。そして彼等により、ムラービト朝(Murabit)が成立された。ムラービト朝の経済は、サハラの交易を保護し、繁栄した。また南のガーナ王国を、ムラービト朝は滅ぼした。そしてイベリア半島にも、ムラービト朝は進出した。

さらに12世紀に、ムラービト朝に対抗してムワッヒド朝(Muwahhid)が成立した。そしてムワッヒド朝はムラービト朝を滅ぼし、北アフリカとイベリア半島を支配した。ムワッヒド朝の経済は、サハラの交易を保護し、繁栄した。 ムラービト朝とムワッヒド朝の両王朝とも、マラケシュ(Marrakesh)を首都とした。

  • イベリア半島の領土喪失

その後、13世紀にキリスト教諸国がイベリア半島の奪回し始めると、グラナダのナスル朝が1492年まで残る。そして1492年、ナスル朝はスペイン王国に滅ぼされ、ムスリムはイベリア半島の領土を失う。

アフリカのイスラーム化編集

  • 西アフリカ

サハラ以南の西アフリカでは、7世紀ごろからガーナ王国が成立しており、金をたくさん産出していたので、北アフリカの岩塩などとの交易によって栄えていた。

1076年ごろのムラービト朝による侵入でガーナ王国は征服され、衰退した。その後、13世紀にマリ王国(Mali)が起こり、14世紀にはマリ王国が栄え、15世紀にはソンガイ王国(Songhai)が栄えた。マリ王国やソンガイ王国は、ムスリムとの交易とのため、イスラームを受容した。

マリ、ソンガイの両王国とも、ニジェール川の中流にあるトンブクトゥ(Tombouctou)が交易の中心都市として栄えた。

  • 東アフリカ

いっぽう、アフリカ東海岸では、アラビアとの海上交易によって栄え、アフリカのバンドゥー系の言語に、アラビア語の影響を受けたスワヒリ語が共通語として用いられた。

  • アフリカ南部

ジンバブエを中心に、モノモダバ王国が栄えた。

イスラームの学問と文化編集

9世紀ごろから、ギリシア語の学問がアラビア語に翻訳された。


唐から伝わった製紙技術が伝わった。

イブン=ハルドゥーンは、『世界史序説』で、遊牧民と定住民の、王朝の栄枯盛衰への影響を考察し、遊牧民が歴史に大きな影響を与えていることを論じた。

 
アラベスクの例

偶像崇拝を禁じていたため、彫像は発達しなかった。アラベスクと呼ばれる幾何学文様が発達した。細密画(さいみつが、ミニアチュール)が発達した。

モロッコ生まれのイブン=バットゥーダは、旅行記『三大陸周遊記』(さんたいりく しゅうゆうき)を残した。 天文学者ウマル=ハイヤームは、正確な太陽暦を作った。また、ウマル=ハイヤームは『四行詩集』をうたった。

イスラム諸国はインドからインドの数字やゼロの概念を取り入れ、のちのアラビア数字となり、数学が発達した。 数学者フワーリズミーが代数学を開発した。

小切手や両替などの商業技術が発達した。

インド・東南アジアのイスラーム編集

10世紀なかばにアフガニスタンでトルコ系のガズナ朝がおきた。さらにのちにガズナ朝から独立したゴール朝(Gohr)がおきた。ゴール朝が北インドに侵攻をくりかえした。

13世紀はじめに、北インドでイスラム系の諸王朝ができた。これら北インドの諸王朝が都市デリーを中心にした王朝だったので、一般にデリー=スルタン朝(Delhi Sultan)という。