イラン民族の国家 編集

アレクサンドロスの没後 編集

アレクサンドロスが没すると、彼の帝国は分裂し、イランの地方は、ギリシア系のセレウコス朝(Seleukos)に支配された。

前3世紀に、アム川のギリシア人が独立してバクトリア(Bactria)を建国した。

パルティアとササン朝 編集

セレウコス朝が弱体化していき、前3世紀にイラン北部でイラン系遊牧民がアルサケス朝パルティア(Parthia)をおこした。 パルティアはローマとしばしば対立しながらも、ローマと中国とを結ぶ東西交易でもうけた。

前漢の司馬遷(しばせん)の『史記』に「安息」(あんそく)と書かれているのは、「アルサケス」朝パルティアのことだと考えられている。

パルティアの滅亡の経緯については、紀元後の224年にササン朝ペルシアのアルダシール1世(Ardeshir I )によって滅ぼされる。アルダシール1世が、ササン朝ペルシアの建国をした1代目である。

ササン朝 編集

ササン朝2代目皇帝のシャープール1世(Shapur I)は、ローマ軍をやぶって、ローマ皇帝ウェレリアヌス(Velerianus)を捕虜とした。

ササン朝は、5世紀後半に中央アジアの遊牧民エフタルによる侵入を受け、一時的に弱体化したが、6世紀にホスロー1世(Khosro I)がトルコ系遊牧民( 突厥(とっけつ) )と協力してエフタルを滅ぼした。

しかし、7世紀の642年にニハーヴァンドの戦いで新興のイスラム勢力との戦いにやぶれ、651年にササン朝は滅ぼされた。

ササン朝の宗教 編集

ササン朝の宗教は、ゾロアスター教を信仰していた。ゾロアスター教の経典『アヴェスター』(Avesta)が編纂された。

3世紀に、バビロンでイラン人(ペルシア人)のマニ(Mani)が、ゾロアスター教をふくむ様々な宗教(キリスト教や仏教など)を融合して、マニ教(MAnichaeism)ができた。マニ教は異端として、ササン朝では弾圧された。北アフリカや中央アジアや中国などにマニ教が広まった。

ササン朝の工芸品は、日本にも伝わり、正倉院に、その工芸品がある。